仏教と社会福祉のトピック

車椅子
2008/01/08
投稿者
貞太郎
内容
一昨日、大失敗をやらかしまして、深夜寝ぼけまなこでトイレに起き、用をたして立ち上がろうとした瞬間です。いきなり、尻餅です。当座はたいした痛みもなかったのでそのままベッドへ。翌朝右足の付け根がめいっぱい痛いのです。立ってられない。

年初なのでやらなければならない仕事があり無理矢理職場へ、仕事も一段落、やっぱし痛い。職場にはお休みをとってそのまま、近所の整形外科に直行。どうやら骨には異常はないようですので湿布薬と痛み止めの薬をもらったのですが立っているのがつらい。

そこで、介護用品を扱っていいるお店に。1ヶ月7000円で車椅子をレンタルで借りてきました。

ところがです、車椅子というのは腕力が必要なのですね。100メートル走だけでもたいへん、一日使っていたら肩と腕がぱんぱんに。常時使っている人は訓練されておられるのでしょうね。車椅子マラソンなんて競技があるようでうが、とてもとても。

やはり、障がいのあるひとはそれなりに苦労をしているのだなと実感しました。

仏教とは直接的にはなにも関係しない話題で恐縮です。

コメント 1件

金剛居士
金剛居士さん

2008/01/11 [23:08]

貞太郎さん、それはまたとんだ災難でしたね。

さて、仏教は一つの考え方でもありますから、どんなことも仏教的な話題にすることはできます。そこで今回は忍辱行の話にしてみます。

すでに去年の秋の彼岸に仏教喫茶室で「六波羅蜜」について長々と書いた一部に忍辱波羅蜜が取り上げられていますから、究極的な修行に関してはそちらを見ていただくとして、今回はもっと初歩的な部分に焦点を当ててみます。

忍辱というのは、字のごとく“辱(はずかし)めを忍ぶこと”です。老化や傷害などによる身体機能の低下や喪失が“辱め”に確実に当てはまるかどうかは別として、それによってある種のプライドは傷つくでしょう。老人になるにつれて我々は皆、これまで平然とやれていたことがどんどん出来なくなってきます。怒ったりがっかりしたり悲しんだり、いろいろあろうかと思いますが、それで自暴自棄になったり八つ当たりせずに、人間というものは、そして“この私”も、そうなるものだと認識するのが忍辱行だと言えます。忍は認だと中国仏教では解釈されますが、辱めを忍ぶ背後には、厳しい現実をあまがままに受け容れる態度があるだろうと思います。

私はあいかわらず厳しいことを言っていますが、その厳しい現実の苦しみをまさしく知る人こそが、せめて他人からはこの苦しみを少しでも取り除いてやりたいと慈悲行を実践できるのだとも言えます。“自分には厳しく他人には優しく”が大乗仏教の精神でしょう。しかし、周辺の人たちには、その優しさに甘えて自らへ厳しさを課さないという問題があります。無用な苦行を自分に課すことは愚かしいとは思いますが、自分にふりかかった厳しい現実を受け容れて、また、援助してくれる周囲の人たちへの感謝の気持ちも忘れないということが必要なのだろうと思います。

この“厳しい現実を受け容れて”というのが、限りなく深いわけで、とくに身体障害者の心理を察すると胸が痛みます。菩薩行とは、そういう大悲の心に根ざしているのではないでしょうか。健康に年をとって、だんだんと身体が思うように動かなくなってくるのは幸せなほうかもしれませんね。(^^;

車椅子で移動するのに腕の筋力を鍛えるというのも、現実と戦う一つの手段だろうと思います。しかし老化すればその筋力もなくなる。そんなときには電動車椅子は非常にありがたいのでしょう。そうやって身体の不自由な人を助けたいと考えるのが社会福祉でしょうが、「年取ってからも安楽な生活を享受できるのが当然だろ!」と豪語されてしまうと、それは仏教から外れるなあと思いますし、性格の悪い私は、そういう人間からはわざと車椅子を取り上げてしまいたくなります。(^^;


ま、せっかくですから貞太郎さんは腕の筋力トレーニング・プログラムを与えられたのだと思って、車椅子を腕のリハビリ機器として楽しんでみてはいかがですか。ものは考えようですから。(^^ゞ