仏教と社会福祉のトピック

石段
2007/05/15
投稿者
貞太郎
内容
先日来、いくつか話題になったNHKTVの「東大寺・よみがえる仏の大宇宙」をみていて、本来の趣旨から離れて気になったことがあります。

実は、このテーマかつての仏教フォーラム(FBUD)でも投稿したことがあるので二番煎じかもしれません。

大仏殿の石段がかなり急峻に思えてなりませんでした。
これって、下肢障害者や高齢者など、足下のおぼつかない方々は、大仏様を拝むことさえできないということです。

考えてみると、どこのお寺も本堂はかなり急な階段がつきものですよね。さらに山の頂上や中腹にあるお寺も多く、お寺までいきつくのさえ、困難なこともあります。

私の母親(85歳・要介護1)は数センチの段差も踏み外しかねません。

私の通勤路にキリスト教の教会があるのですが、住宅地のなかの狭小なスペースですが、車いす用のスロープがあるところがあります。その点、仏教寺院は土地はたっぷりとあるケースがほとんどでしょうから、高齢者や障害者のためのスロープなり、ゆったりとした階段を用意することは十分可能だと思えます。

まあ、東大寺のような国宝や重要文化財に指定されたお寺でそれをやれといってもそれは無理でしょうが、一般のお寺では改修などの時にそれを作ることは十分可能なのではないでしょうか。

千葉県内の私の知っている例でいきますと、成田山新勝寺は参道から本堂2階までエレベーターでいけます。また、日蓮宗誕生寺では本堂の石段の上に木造のスロープを設け、高齢者に配慮した造りになっています。

高齢者や障害者を受け入れてくださる(そういう人々がもっとも仏様を欲しているんだとおもうんですが)、いかがでしょうか。

今、健康な方はほとんど気にならないことですが、齢80歳になった時のことを、一度、考えてみてください。

コメント 6件

金剛居士
金剛居士さん

2007/05/15 [22:12]

貞太郎さんの話の腰を折るようで心苦しいのですが、これは仏教だからこそ難しいという問題かと思います。


なぜ石段の下から拝むだけで満足できないのか。なぜ連れに代わりに拝んできてもらうことで満足できないのか。まさしくこの世は自分の思い通りにならない、ということを自覚するのが仏教ではないのか。これは仏教における一つの考え方であり、むしろ“わがまま”を通すことが仏道の妨げになる可能性もあります。

逆に、観音様のようになんでも願いをかなえてやるような手段も仏教の一つかもしれません。それで仏教への信仰が深まればの話ですけど。

スロープならまだしも、エスカレーターやエレベーターを作れば絶対に健康な人間がズルをしてそれを利用しようとしますからね。優しさが仏教(信仰者)の堕落に結びつくかもしれません。

平地ではなく山の上に寺を作るのは、やはりそれなりの意味があってのことではないかと思います。寺は単なる観光名所ではないのですから、そのあたりの意味を切り捨てないことが大切かと思いますね。

優しさが人間をダメにすることもあるわけで、これは仏教にかぎらず社会福祉一般に言えることではないかと思います。表向き優しくない深い優しさというものもあるのではないか。仏教では、不動明王など強面(こわもて)の仏様もいます。


「仏像が救うんじゃなくて僧侶が救うんだよ」という立場の私は、仏像を拝みにいけるかどうかは仏教的救いに関しては大した問題ではないと思っています。立場が根本的に違うと話が噛み合いませんね。(^^ゞ 貞太郎さんの考えに賛同される方のご意見も聞いてみたいと思います。




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しらいし
しらいしさん

2007/05/17 [08:41]

自坊は境内までは階段の他に女坂があり、車の上れる坂もあります。お墓への階段も一昨年幅を広くし傾斜を緩やかにしました。本堂を椅子席にすることもしました。
そうすると今度は、お墓まで水を持っていくのが重いから、お墓の中に水道を作ってくれというリクエストが出てきました。
さて、何処まで楽を出来るようにするのが良いんでしょうね。
ちなみに、水道の件は、自坊の場合玄関の隣に水場があり、墓参したい人は、玄関に入り誰か寺の者(このため必ず誰かが居るようにしている)が線香を点けて、隣の水場で手桶に水をくみ、本堂の前で本尊に挨拶してお墓に行く、と言う事に意味があると考えますので、このリクエストは却下しました。
立て直しの際にバリアフリー化したお寺も知っております。それはそれで良いことであるとも思います。金を掛ければどんどん楽をすることも出来るでしょう。
しかし、「楽だから、みんな来る」少々短絡的なように感じます。
あるものはある。ないものはない。その中で「足るを知る」事も重要かと考えます。


金剛居士
金剛居士さん

2007/05/18 [23:58]

おっと、貞太郎さん形勢不利になっちゃいましたね。でも、さらに追い打ちをかけるように (^^ゞ 思いついたことを付け加えておきます。


寺が高いところにあるのは、石段を登ることによって六根を浄めるという意味合いもあるんだろうと思います。六根清浄お山は晴天〜♪の簡略版ですね。だから基本的には自分で登らなければならない。でも、仏像は見せてあげたいというのが貞太郎さんの気持ちなわけですね。

それは僧侶の役割じゃなくて、むしろ信者同士の相互扶助の問題ではないかと思い至りました。たとえば屈強な若者数人で協力して背負って登ってもらうとか。信者同士の相互扶助や福祉の充実ということになると、日蓮系の某信者団体がお得意ですね。(笑) やはり貞太郎さんの発想自体が日蓮宗の在家信者的なものなのかもしれません。そっけない僧侶と意見が食い違うところも。これ、強引に結びつけ過ぎでしょうか? 今回の貞太郎さんの提言は、なにかこう在家の(つまり世俗の)優しい情に基づいた意見のような気がするんですよね。

「仏教と社会福祉」というテーマで言えば、貞太郎さんのような優しい気持ちを人々に持たせるという意味で、仏教は社会福祉にも大いに貢献してきたのだろうと思います。ただ、それは信者同士に向かわせる世俗的な情で、僧侶はそのような世俗的な情に流されないように、常に超然とした一面を持っていなければならないのではないかと思います。僧侶は世間的な情に流されて衆生の手助けをするのではなく、ただ仏の慈悲の実現をお手伝いするのみという一線を越えないことで、情に流されない慈悲心を自らの内に保持しているのではないかと思います。その一線を越えて山を降りちゃったのが日蓮や親鸞だったりして・・・。(^^ゞ



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貞太郎
貞太郎さん

2007/05/19 [17:55]

>石段を登ることによって六根を浄めるという

このところ、金剛居士さんは修験道系ですね(^_^)

私もお寺が高い山の上や山腹にあるのがいけない、といってるのではありません。それぞれ、ゆわれがあるのですから、山の下におりてこい、なんて無茶をいってるわけではありません。比叡山や高野山はわざわざ深い山中にお寺が開かれているのですから。

しらいしさんのおっしゃるように

>お墓の中に水道を作ってくれというリクエスト

というのも少しゆきすぎですよね。そこまでする必要はないと思いますね。

>やはり貞太郎さんの発想自体が日蓮宗の在家信者的なものなのかもしれません。

日連系の宗教団体はごめんこうむりたいですが、そういわれると無意識にそういう側面もあるのな?法華経自体はきらいではございませんが、寺の住職の考え方にはちょっと・・・金剛居士さんの指摘するどいかも。ちょっと危険かな〜?


金剛居士
金剛居士さん

2007/05/25 [22:23]

>このところ、金剛居士さんは修験道系ですね(^_^)

まあ、今回の話はむしろインドやチベットの寺院礼拝作法をイメージしながら発言しているんですけどね。彼らは立ち上がったり額ずいたりを繰り返しながら、芋虫のように少しずつ神像等に近づいていきます。日本人が実際にそこまですべきとは思いませんが、それくらい敬虔な気持ちが“本来は必要”だということは自覚すべきかと思います。


>そういわれると無意識にそういう側面もあるのな?

しらいしさんの発言をみて、やはり僧侶として戒を受けている人と、一般の信者とでは、微妙にものの見方や生き方に違いが出てくるのではないかと思いました。私もヨーガの解脱を求めてきたクチで、世俗的な甘えとは一線を画した戒を内面に保っていて当然というような一面がありますから、貞太郎さんの発想は世俗的だなと思ってしまうわけです。でも、かくいう私自身も、“心に戒を保っていても、その戒を実際に守れるかどうかは別問題”という到ってご都合主義の生き方ですから、半僧半俗くらいの立場ですかね。(^^;




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しらいし
しらいしさん

2007/05/26 [17:58]

毎晩、晩酌している身としては、戒なんて言われると恥ずかしい限りです。
ただ、寺にいて、ハードとしての寺とはなにか、と考えるとき、金儲けとしての場所とみれば、出来るだけ楽をさせて、どんどん人が来れば良いという部分はあります。勿論布教のために、多くの人に来て貰うという見方もありますよ。
しかし、信仰の場所としてみれば、そういう来ればいいという物でもないわけで、信仰とはたやすいことでも良いから、ほんの少しでも良いから、犠牲というか苦労も必要だと思います。
浄土宗は易行の口称念仏ではありますが、あくまでも易行であって無行ではありません。例えば念仏を称えるというのは、誰でも出来ることですが、中々毎日称えるというのは、続けることは簡単ではありません。やっぱりほんの少しではありますが、努力とか苦労もあります。
その中で時代と共に、刺激というか、その苦労の度合いも変わってくるとは思いますので、勝手な寺側の主観ではありますが、その刺激というか、苦労も調整しながらハードとしての寺は変えていくモノかと思います。
まあ確かに車いすの人が、お墓まで上がれるかと言われれば、難しいモノはありますが、何でも総ての人が同じように出来るようにと考えれば、運動会で勝ち負けを作らないように、手を繋いで徒競走をするようなモノで、これはこれでまた不自然なんじゃないかなと思います。
本堂ぐらい取り外し式のスロープでもあっても良いかな、っと思うこともありますが、一緒に来た人が持ち上げてあげる方が良いようにも思うし、そういう人がいなければ、私がおんぶしても良いですからね。
ット言うことで、何でもハードに頼る考えでなく、そこに生きている人間がソフトと見れば、そのソフトが本質じゃないかなと思ったりもするわけです。