仏教と社会福祉のトピック
- 延命治療の可否
- 2007/04/10
- 投稿者
- 貞太郎
- 内容
-
本日(19年4月10日)の毎日新聞(朝刊)によると、厚生労働省の「終末期医療の決定プロセスのあり方に関する検討会」において、末期状態の患者に対する延命治療の中止などに関するガイドラインを示したということです。
同紙によると、延命治療の中止を決定する場合、
1.患者と(複数の)医療従事者が話し合い、合意内容を文書で残す。
2.患者本人の意志が確認できない場合は、家族が推定した意志を尊重。
3.家族も推定できなければ、医療・ケアチームが家族と話し合い、患者にとって最善の治療方針を決める。
とのこと(詳しくは同紙をご参照ください)。
2年前に50歳にて他界した学生時代の親友は1を選択いたしました。彼は末期ガンで余命幾ばくもないと宣告されて、それでも自分の意志をつらぬくため、沈痛のためのモルヒネなどの投与を最小限に抑え、自分自身を維持できるよう医師に依頼していたと彼の奥様から聞かされました。その心中いかばかりと、私のような臆病者には想像を絶する悲壮な覚悟かと思います。
実は、私の父の場合は2に当たります。私も父の延命治療の可否を介護施設や病院から問われた経験があります。
父は脳梗塞を発病すると同時に認知症と認められる症状があらわれ、自らの意志を確認することができなくなりました。そこで、入所・入院の都度、長男である私の意志決定を求められたわけです。
結局、母・妹と相談のうえ延命治療は辞退する旨、施設に告げました。
その一年後に不自然な延命治療は行われず父は逝きました。
しかし、それが最善であったのかは神仏ならぬ私どもには、にわかに判断できないものがあったのは事実です。
どうでしょう。みなさんは「そのとき」にどう判断されますか?
コメント 13件
2007/04/13 [20:12]
貞太郎さんはデカルトみたいに、「我思う故に我有り」ですね。
自分の意識が先ず主であると。
別に非難しているわけではありません。ホント、その考えもまた道理の一つです。
だだ意識を主たる自分と見ていると言うことです。私は意識とか理性と呼ばれるモノのもう半歩先ぐらいに何かあると思っています。
私の専門外ですので、上手く説明できませんが、愚道さんさんなら理路整然と説明できるんじゃないかな。
>認知症などの場合、心の確認のしようがない。おそらく「心」はあるんでしょうけどね。
この辺りの絡む話ですよね。
2007/04/14 [07:35]
>私は意識とか理性と呼ばれるモノのもう半歩先ぐらいに何かあると思っています。
もちろん、それは私もそう思っています。ただ、医療という点からの話題でしたので、即物的な表現をしています。
仏教と医療の関係あるいは仏教からみた医療という視点を意識すれば、もっと別の展開もできるだろうと思います。できれば、話をそういう方向にもっていきたいんですが。
>この辺りの絡む話ですよね。
父の最期にあたり一番悩んだ点です。
2007/04/15 [02:49]
認知症というものをどう見るか、ということもかかわるでしょう。 これは鳥さんのご意見もお聞きしたいですね。
私は認知症といえども「生きてるだけで丸儲け」とも思います。もちろん、それで家族を悲惨な目に遭わせるならば、生きていたくないと思う自分も、自分の中にいます。ケースバイケースでしょうか。
ただ、昔のことを忘れ、童子にかえるだけで、家族に苦を与えないのならば、頂戴した命を大事にしたいですね。
それは、理想はピンピンコロリです。
私の祖母は私が小学校4年の時に他界しました。ちょうど8月15日、お盆の最終日でした。13日まで畑仕事をして、珍しいことに夕方から少し寒気がして熱が出たといって食事もせずに布団はいりました。元気で寝込んだことのない祖母でした。翌日も食欲がなかったのですが、夕方に東京風のお寿司、特にカッパとイカキュウリ巻、鉄火巻が食べたいというので、父が坂元九ちゃんのお姉さんが女将さんをしている市内のお寿司屋から寿司折りを買ってきて、祖母は喜んでそれぞれ一つずつ食べて眠りました。しかし、熱が下がらず、夜中に両親が市立病院に運ぶと肺炎と診察され、緊急入院しました。朝方、祖母が病気など珍しいことだと親戚たちが次々見舞いした後、お昼頃に息を引き取りました。ほとんど苦しむことがない大往生でした。
70半ばでしたが、いまから30年以上前ですので、当時としては長命の部類ですね。
これがわたくしの理想の死に方ですね。
2007/04/16 [19:10]
愚道さん、こんばんは。
>私は認知症といえども「生きてるだけで丸儲け」とも思います。
同感です。父の最末期をみていても表現できなくとも生きていたい、と思わせるものはありました。
ただ、
>それで家族を悲惨な目に遭わせるならば
という事実もございますよね。私の場合、父は他界しましたが、母は存命で当年85歳になります。いまのところ、物忘れは多くなりましたが、意識はしっかりしておりますし日常生活に支障はございません。
でも、私がいろいろ相談している精神科の先生に言わせますと、その世代の1/4強に認知症の症状が認められるとのこと。もし母がそうなった場合、自宅での介護は無理だろうということでした。事実、父を看取った経験からも認知症の老人を1人介護するには介護する側は3人程度それにもっぱらあたれる人間が必要なように思いました。しかし、現実にはそんなことはできるわけがない。
介護制度の強化が必要だというしかありません。しかし現実には制度は後退する方向のようにもみえます。また、社会的な支援だけでよしとするのも、またいかがなものか?肉親でなければならないこともあります。
>理想はピンピンコロリです。
ええ、それが理想です。心身ともに健やかで過ごしてある日突然、本人も苦しまず、家族も納得して逝くのが最高でしょうね。ポックリ寺(だったかな?)なんてのもあったようですね。
冗談めいた話ですが、ポックリ寺へ高齢者団体がお参りするのに万一に備えて医師同伴なんて笑い話もありました。
2007/04/24 [14:13]
みなさん、こんにちは。ノビーです。
このコミュニティーに初めて参加させていただきます。
延命治療についてなのですが、私の場合はといいますと、半年程前
にオフクロが亡くなり(享年59歳)、末期ガンでした。
昏睡状態に陥ってから、医師と相談した上で、人工呼吸機を外すに
いたった次第です。病気が病気なだけに、延命治療を行ったとして
も永くはない命とは思いますが、どちらの方法をとっても後悔の念
が残ると思います。つまり、延命策をとっても、そのやつれていく
姿は見るに忍びなく、本人もジワジワと病気に犯され、麻酔効果は
あるにしても時折激痛が襲うわけですから。
こと「命」にかかわる問題につきましては、どちらの道を選んでも
これでよかったとうことにはならないのではないでしょうか。
最近の例でいえば「赤ちゃんポスト」問題が似ているのかもしれま
せんね。立場をかえれば、それぞれの意見が正しく、またどちらの
意見にも筋が通っていると思います。
さらに、私の女房の父親は現在入院中(認知症)。自宅で介護すれ
ばとは思いますが、ほとんどのことを忘れてしまっているため、ど
のようなことが事態が発生するか予測不可能です。人に危害を加え
ることだってありうるかもしれませんので。
それゆえ、私が思うには、いつの日か人は亡くなるということを強
く自覚し、人生が終えた時、後悔の念(執着)をあまり残さぬよう
に日々明るく生きていくのがいいと思っています。
この世には電気がありますので暗い道も照らすことができますが、
あの世には電気がないでしょうから、心の明るさだけが頼りでしょ
うから。(^^)
2007/04/25 [18:06]
私は以前から思うのですが、もっと日本のお坊さんはお医者さんたち交流を持ち、忌憚なく意見を交換すべきですね。
よりよく生きるだけでなく、よりよく死にたいではありませんか。
それにはお医者さんと僧侶、神父・牧師、神職、そして各宗教を信仰する在家の人々が忌憚なく話し合い、よりよい生き方とよりよい死に方について議論を深めるべきだ、と私は思うわけです。
2007/04/25 [20:16]
ノビーさん、つつしんでお母上さまのご冥福お祈りいたします。59歳でのご他界とのこと、あまりにもお若いですよね。悲しみいかばかりかとお察しいたします。
>こと「命」にかかわる問題につきましては、どちらの道を選んでもこれでよかったとうことにはならないのではないでしょうか。
おっしゃるとおりですね。私の経験からも神仏ならぬ身では決断しかねる問題です。それでも病院はいずれかの選択をせまってくる。
そこで、愚道さんのいわれるように、日本のお坊さんは亡くなってから、動き出すのではなく「お医者さんたち交流を持ち、忌憚なく意見を交換すべきです」という仏者たるものの行動指針がでてくるのではないかと思います。
私の携帯電話の電話帳には残った母の万一に備えて、お寺と葬儀社の電話番号が登録されております。葬儀社はともかく、お寺には生前どうしたらよいかという相談をしたいとおもうのですが、亡くなってからでないと動いてくれません。
おそらく当ネットワークに参加されている、ご出家の皆様におかれては、いざというときにアドバイスしてくださる方々ばかりだと思っております。
2007/04/26 [08:16]
>私は以前から思うのですが、もっと日本のお坊さんはお医者さんたち交流を持ち、忌憚なく意見を交換すべきですね。
私が浄土宗総合研究所に勤めていた頃は、ターミナルケアを研究していたプロジェクトもあったんですが、その担当研究員が事故で亡くなってしまい、その後も生命倫理としての研究はあるのですが、脳死や臓器移植がメインとなって、終末医療に関するプロジェクトは今は無いかなぁ。
個々に活動している僧侶はいますけど、あくまでもそれは個人の能力の問題で、仕組み作りとなるとやっぱり組織の力が欲しいですね。
私自身2年間ぐらい雑誌「ターミナルケア」を購読してはいたんですけどね。
2007/04/29 [21:48]
貞太郎さん、みなさん、こんにちはノビーです。
>日本のお坊さんは亡くなってから、動き出すのではなく「お医
>者さんたち交流を持ち、忌憚なく意見を交換すべきです」とい
>う仏者たるものの行動指針がでてくるのではないかと思います。
そうですよね。ちゃんとした人格者の方が、人々のためにという
考えで行えばなんら問題ないとは思うのですが、そこにビジネス
という考えを持ち込んでしまうと、医師との癒着問題等々、よか
らぬものが生じてしまうのでしょうね。
どの職業でもどこまでも欲の深い方が多くいらっしゃますので、
ゆがんだものとなってしまうのでしょう。
私の個人的考えとして、あらゆる物事の対処法にこれが一番とい
うのは恐らくないのではと思っております。自分ではいいと思っ
ていたこと(考え)でも人それぞれ精神年齢が異なりますので、理
解力に差が出てしまうことも現実。
上から人を見下ろすのではなく、その人の精神年齢まで降りていっ
て、わかりやすい言葉を選びつつ、おしつけではなく、その方が気
づくまで根気強く待ってあげるのがいいのでは思っています。
でも、これがまたなかなか辛いものです。
延命治療をする側、される側、またそれを求める側。それぞれ立場
が異なれば、考え方も異なり、解決策は難しいものと。
しかし、このような状況の中でこそ、命のことについてあたらめて真剣に考え、人としの深みが増していくことはすばらしいことと思います。
2007/04/30 [19:47]
ノビーさん、コメントありがとうございます。
>命のことについてあたらめて真剣に考え、人としの深みが増していくことはすばらしいことと思います。
うん、そうですよね。仏教者が「いのち」というものとどう直面するか、根本ですね。
ところで、こんなサイトを見つけました。
http://www.sut
この病院では仏教精神で運営される(詳しくはわかりませんが浄土真宗系なのかな、同時に座禅会ももようされているというから一宗・一派にとらわれずに運営されているらしい)、この国では珍しいホスピスのようです。ほんとうはもっと同じような施設・病院が各地に欲しいですね(そんなエネルギーはこの国の仏教にはないでしょうか)。