中観思想・学びのすすめのトピック

仏教って単純明快
2016/10/05
投稿者
来生
内容
お断り

 私が仏教喫茶室の投稿禁止を受けた当時は、喫茶室に二、三の投稿がありましたが、その後メンバーからの投稿が途絶えていますが、どうしたのでしょうか?

 投稿がにぎやかにならないのは私のの所為ではないですね?

 これからのお話はこの部屋にはふさわしくありませんが、発言の場が限られていますので、ここでさせて頂くことをお許しください。

 話の大前提は般若経に記述されているように生死流転が真如であることです。

 なお史実の多くについては立川武蔵氏の「ブッダをたずねて」を参考にしていることをお断りします。

コメント 10件

来生
来生さん

2016/10/08 [22:14]

仏教って単純明快

 他の宗教と違って、仏教には神がいない。摩訶不思議な神を信仰しないとすれば、何を信仰するのであろうか?それは単純明快な「真理と論理」である。

 真理は「般若経」に詳しく、その要諦が「般若心経」である。論理は「縁起の理法」であろう。

 般若心経の最初に「般若波羅蜜多時」とあるので、悟りとは「照見五蘊皆空」の「空」の事であろう。次いで「色即是空、空即是色」と続く。「色」と「空」とは同一と述べているが「色」は「垢浄」であり、「空」は「不垢不浄」であるから全く異質である。

 「色即是空」だけなら「色」の真実は「空」であると言えるが、「空即是色」があることから「空」の真実は「色」であるともいえる。従って「空」も「色」もどちらも真実である。

 これは異質なものが可逆であるという結論になる。即ち「色が分解して空となり、空が合成して色となる」のである。これで不可思議な「色即是空、空即是色」が理解できる。

 これを現代科学の真理に当てはめると、「物質が分解してエネルギーとなり、エネルギーが合成して物質となる」と言うことになる。

 真理に科学や仏教の区別は無く唯一であるから、「空」はエネルギーということである。

 論理は「縁起の理法」が適用される。ごく単純に言えば、「AがあればBがある、AがなければBがない」に尽きる。

 デカルトは「我思う故に我あり」と自己を表現した、これを縁起の理法に適用すれば「思いがあれば我はある、思いがなければ我はない」となる。

 これから推論すれば、思い(心)だけが我であって肉体は我ではないといえる。

 現代科学は思い(心)は悩内(肉体)で生成されるというという主張が主流であるが、本当にそうであろうか?心は掴まえ所がないので、その科学的実証は不可能であろう。

 般若心経では人体は五蘊で構成されているとの記述がある。肉体(色)と心(受想行識)は独立して存在しているという考えである。

 臨死体験の報告では、自分の死の宣告を天井付近で目撃しているとのことである。少なくとも肉体の死と心の死とには時差があると思われる。

 縁起の理法に当てはめれば、肉体の死を心は目撃しているのであるから、思いが残っていると考えられる。思いがなくなるのは何時であろうか?

 今ここで思いを無くせといわれて、簡単に思いを無くすことができるであろうか?

 多分心は永遠に生き続けると想像される。釈尊ほどの人が苦行修練によって初めて思いを無くすことが可能なのであろう。それ程本当の「人の死」である、「心の死」は困難を極める。

 仏教の目的は「輪廻転生からの解脱」であるという。

 古代インド宗教では、永遠に輪廻転生が繰り返されるとの思想であったが、釈尊は「空」を発見したことで、思いを無くせば心はエネルギーに還元されることを確信して仏教を開いたのであろう。

 「解脱」とは思いを無くす修練を完成させて我を無くすことであろう。心はそれまで生き続ける。

 日本の仏教に多数の宗派があるが、いずれもそれぞれ解脱を目指す手段とノウハウを競っているのであろう。


金剛居士
金剛居士さん

2016/10/11 [17:44]

>話の大前提は般若経に記述されているように生死流転が真如であることです。

般若経のどこに記述されているのか、場所を明示してください。


来生
来生さん

2016/10/13 [14:39]

 コメントを有難うございます。

 その件は昨年暮れのトピックス「般若経」に明示してありますので、ご存知だと思っておりました。

 善勇猛般若経の「三 真如」に記述してあります。


来生
来生さん

2016/10/15 [15:22]

 仏教=目的

 仏教はその目的である「輪廻転生からの解脱」以外の何物でもない。

 仏教とは目的そのものである。

 それ以外何も考慮しなくて良いから単純明快である。

 般若心経に「度一切苦役厄」とあるように、釈尊が「生老病死」の四苦の解決を目指して苦行し、悟りを得た結論であるから、それ以外には何もない。

  生死流転から抜け出すこととはどういうことであろうか?

 生の世界(今生)は肉体で生きている限り四苦は免れない。必ず死が訪れるから解脱はあり得ない。

 死の世界(他生)は肉体がないから四苦はあり得ない。

 従って、思いを無くして、本当の死に達するべきではあるが、最低限、他生に留まり続けることが「解脱」である。

 ただ解脱の道は険しいだけに、硬軟多様な実践のノウハウを教示したのであろう。

 死を免れない限り、今生はうたかたの憂き世と観じ、過度の喜怒哀楽を避け、再度の転生を忌み嫌い、安穏に終焉を迎えれば、あるいは他生に留まり続けることが可能かもしれない。


来生
来生さん

2016/10/22 [15:58]

 あの世

 心のメインの住処であるべき、あの世(他生)がどういう世界であるかは皆目わからない。

 わずかに「チベットの死者の書」に記述があるだけである。

 そこには転生の経緯が1例として語られているに過ぎない。

  「チベットの死者の書」には「平和の神々」とか「怒りの神々」とかが現れる。釈尊も「梵天勧請」を受けている伝説があるから、あの世には神々がいるのかもしれない。

 それらの神々の祟りがないように、今生をどのように心掛けるかが、必要であろう。


来生
来生さん

2016/10/29 [16:06]

 仏教の迷走 偶像崇拝

 仏教が単純明快であるにもかかわらず、それを複雑にしたのは、偶像崇拝である。

 釈尊は偶像崇拝を禁止したが、釈尊の没後早くも仏舎利を分配して崇拝した。

 これが迷走の始まりである。

 後世には多くの仏像を製作して信仰の対象にした。

 釈尊の意に反して偶像崇拝による仏教が発達した。

 原因は「空」が理解できなかったからであろう。当時は無理からぬことであったが。

 仏像には柔和な表情の菩薩像等と荒々しい表情の金剛力士像等があるが、これは多分「チベットの死者の書」の「平和の神々」と「怒りの神々」の具象化であろう。


来生
来生さん

2016/11/05 [16:55]

 仏教の迷走 仏法僧

 釈尊の遺言は「自灯明 法灯明」であるそうな。

 頼りは「法」だけである筈なのに、偶像崇拝による仏を敬え、開祖とその継承者を敬えが加えられて「仏法僧」に改められた。

 指導僧の絶対化が加わり、開祖から指導僧が変わるうちに、集団のマンネリ化に伴う腐敗が広がり、これにに反抗した法然や親鸞らが破門され、迷走が加速した。

 「仏法僧」のために指導僧の意向次第で、オウム真理教のように、本来の教義に反した行動が社会を騒がせることになる。


来生
来生さん

2016/11/12 [22:25]

 仏教の迷走 寺院

 釈尊の頃は説教の場としては祇園精舎のような簡素な集会所であったが、時を経て中国に伝来した後は、信仰の象徴として壮大な寺院が建立されたのであろう。法灯明の学び舎としては無用の長物である。

 中国より百済を経て日本に仏教が移入されたとき、寺院も同時に輸入されたのであろう。

 「自灯明」であるから、人それぞれ単独思索であるべきだが、「法」を学ぶ必要から説教の場として集会所が求められたと思う。

 それはともかく寺院の特徴的な建造物は、仁王門である。

 現在は仏敵、外敵を防ぐためだというのが定説であるが、仁王門は通常参道の中央あたりに建立されていて、そこまで敵が進入するのを許すというのは防御的に疑問である。そもそも仏敵とは何を指すのであろうか?

 忿怒尊はあの世では必要であって、仏教的にこの世ではあり得ない仏である。法の説教だけで済むから怒りは不要である。

 私は、本堂と参道とで「チベットの死者の書」の物語を具象化したのではないかと思う。

 もし本堂と仁王門の間の距離が参道全体の七分の三前後であれば、怒りの神々が第三週に現れるので、間違いなく物語の具象化である。

 本堂には平和の神々が、仁王門には怒りの神々が鎮座しているのが正しい。

 従って昔から「チベットの死者の書」は重要な経文だったのであろう。


来生
来生さん

2016/11/19 [16:49]

 仏教の迷走 葬儀

 釈尊が 臨終を迎えたとき、近くの村で釈尊の葬儀の準備を始めたそうな。釈尊はそれを見て弟子たちに、あの葬儀に関わるなと戒めたそうな。

 もともと葬儀は民俗信仰行事で仏教とは無縁であった。

 応仁の乱で賀茂川で多数の死者が放置されていたのを、僧侶が埋葬したのが仏教と葬儀の関わり合いのはじまりとか。
 
 現在では葬儀のために仏教が利用されている。

 ネットなどで、仏教関係者が「葬式仏教」と自虐的に語るのを散見するので、充分自覚があると思うが、テレビや新聞等でで立派な寺院が墓苑の募集などを広告しているのは、まさに仏教の迷走極まれりという様相である。

 忌中が49日に定められ、地方によって忌明けが「満中陰」と呼称されるのも、「チベットの死者の書」の物語が色濃く影を落としている。


来生
来生さん

2016/11/26 [22:13]

 生死流転

 仏教の目的が「輪廻転生からの解脱」であることを素直に解釈すれば、仏教の専門家はあの世の存在を強調しなければならないものを、日本ではその主張を誰もが消極的であるのは不思議である。

 「輪廻転生」が意訳の余地を残しているのがその原因であろう。

 科学的に死後はないという非科学的な主張が優先して、それを意訳で補完してるように見える。

 死後については、誰もが知り得ないことであるから、それを科学的に証明するのは不可能である。

 善勇猛般若経の真如に「生死流転」という言葉が真実として語られている。

 釈尊は意訳を許さぬ明快な用語を用いている。

 真如とは「虚妄でないこと」と般若経に定義されている。

 梵天勧請事件での死後の体験(般若心経に「彼岸に往けり」との記述がある)を持つ釈尊が、虚妄な事項を真如の中で語ることはあり得ない。

 因みに、世界の霊能者にも「生死流転」(輪廻転生)を予言した人がいる。

 アメリカの写真技師で、紛失物を探し当て評判になったエドガーケーシーは、クリスチャンであるにも関わらず「人間とは?」の問いに「輪廻転生」と答えたと伝えられている。(「エドガーケーシー」で検索すればネットで詳細を知り得る)

 「大予言」で知られたノストラダムスは「諸世紀」の二章十三に

 「魂のない肉体はもはやいけにえとして認められない 死の日は生まれの本質にすえられ 神の霊は魂をしあわせにするだろう 神的精霊の永遠性のうちにその声をみつけながら」

と予言している。