中観思想・学びのすすめのトピック

般若経
2015/11/22
投稿者
来生
内容
 般若心経の元であると思われる、般若経を読んでみたが、「智恵の完成」という文字の羅列で、まわりくどい字句の繰り返しで読み疲れて、まだ金剛般若経(長尾雅人訳)と善勇猛般若経(戸崎宏正訳)の一部しか読めていない。

 善勇猛般若経の「真如」の中の序盤に「知恵の完成の種々相ー五蘊を中心に」という見出しがあって、この関連が般若心経ではないかと思われる。

 出だしは「善勇猛よ、実に物は物としての固有の実体(自性)を離れたものである。感覚や観念や意思形成も同様である。認識も実に認識としての固有の実体を離れたものである。そしてそれらが固有の実体を離れているという、このことが知恵の完成である。」となっている。

 私はそれを「知恵の完成として見れば、物に自性がない(感覚、観念、意思形成、認識も同様)」と読み換えれば、理解しやすいように思う。

 「智恵の完成」が般若心経の「般若波羅蜜多時照見五蘊皆空」ということであれば「空性」の事になる。

 従って「空性」が何であるかが判ればもっと理解を深めることが出来る。

コメント 3件

来生
来生さん

2015/11/29 [16:17]

 水野弘元先生の「釈尊の生涯」という書物の「成道と三明六通」の欄に、「(前略)深夜に世界人生の真理に関する智慧としての濾尽智通を得たとせられる(後略)」というくだりがある。

 「世界」が般若心経の「諸法(この世の中のあらゆる存在や現象・花山勝友先生訳)」の意訳であるとすれば、これは「宇宙」と読み替えることが可能である。

 すると「宇宙人生」即ち「宇宙生成の真理」を悟ったことになる。これは釈尊がビッグバン以前の宇宙まで知ったということである。とすれば「空性」は「エネルギー」の事となる。

 即ちこれは科学的真理と一致する。真理に科学も宗教もないのである。

 それならば般若経の「真如」は現代人にとって容易に理解が可能である。

 即ち般若心経の「色即是空」は「物質はエネルギーで出来ている」ということになり、エネルギー(知恵の完成)として宇宙を見れば、この世の中のすべての存在と現象が「無」であるという結論が得られる。これが真如である。

 もし「世界人生の真理」が「宇宙生成の真理」ではないとすれば、「世界人生」はどのような意味であるか、どなたか教えて頂きたい。

 私が読んだ限りでは、般若経の内容はこれに尽きると思われる。即ち「色即是空(性)」の色をあらゆる現象に敷衍してすべてが「空性」であると結論している。


来生
来生さん

2015/12/07 [22:06]

 さらに般若心経でも、「諸法空相」だけが説明されていて、「諸法色相」が省略されている。

 「色相」とは普段我々が知覚する存在と現象であるから、説明がなくてもだれでも共通認識が得られからであろう。

 「諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」という特徴は、「諸法色相」との著しい相違を述べたものと思われる。

 即ち「諸法色相 生滅 垢浄 増減」で、諸行無常なのである。

 般若心経では「色即是空 空即是色」と常に一対の表現がなされている。

 その意味が、色が幻であって空が真実である(色即是空)とするなら、空が幻であって色が真実である(空即是色)ということである。どちらも幻ではあり得ないから、どちらも真実ということになる。

 「空性」がエネルギーであれば、科学的にもエネルギーと物質との関係が e=mc^2で表わされて、巨大な量のエネルギーが凝縮して物質化したのである。(70Kgの体重の人体は広島型原子爆弾十万発相当のエネルギーで構成されている)

 決してエネルギーそのものを物質と錯覚視しているのではない。

 万人が物質や現象を同じ形態として視認し、同じ触覚を得るのは、「空性」だけでなく「色」もまた真実であるからである。

 同様にこの般若経でも「知恵の完成(色即是空)」としてではない、「現実の姿(空即是色)」についても検討する価値がある。

 この般若経の「真如」の中に「自性」を持つ存在や現象にどのような事象があるかを調べてみたい。


来生
来生さん

2015/12/13 [16:41]

 上記の出だし部分に記した「物」や「感覚」や「認識」等の事象はすべて我々が理解納得できるものである。

 続いて、作用として、「結合、分離、大小、清浄、不浄、移動、進入、束縛、分解、生死、生滅、生死流転、滅尽、出現、生滅、生起、壊滅、変移、常住、無常、苦楽、自我、怒り、愚かさ、作物、起動、知識、感知、認識、断滅、無限、有限、誤り、愛欲、善,不善、去来、とどまる、こちら側、あちら側、持戒、破戒、愛情、与奪、忍耐、努力、集中、知恵、転倒、不転倒、観察、精励、神通の基礎、無量心、支分、正道、明知、解脱、禅定、三昧、等至、神通、空、無相、無願、因果関係、執着、知る、思い迷う、観念、静寂、」等がすべて否定されている。

 ここは般若心経の「是故空中、無色、無受想行識・・・・」の「無」の羅列に対応していると考えられる。

 後半の「持戒」以降は仏教的知識が必要として除外すれば、それらは一般の人でもあらかた理解できる事項であると思う。

 ただ「移動、進入、生死流転、こちら側、あちら側」については、訳者の注釈が付いている。

 移動は「死んで他の世界へ移っていく」、進入は「この世界にはいってくる」、生死流転は「輪廻」、こちら側は「此岸」、あちら側は「彼岸」となっている。

 もし訳者の注釈が正しいとすれば、それらの言葉の理解ができても、これを真如として受け入れている人が何人いるだろうか?

 仮に訳者の注釈が誤りであるとしても、「生死流転」だけは間違いなく真如である。

 此の書の中にも「真如とは即ち虚妄がないこと」と定義されているので、知恵の完成として否定されたこれらは、「空即是色」の立場では、否定の否定でそれらの事象は我々が知覚できる現実であり、そのまま真実であるということが出来る。

 もし虚妄であるならばばこれ等の言葉がこの般若経に現れない筈であるからである。

 この般若経で仏教の目的の基盤となる「輪廻転生」が真実であることが証明できると思う。

 近代までの日本仏教を含め、外国のほとんどの仏教国では、民俗信仰の影響が見られて、それぞれに脚色されているとしても、基本の輪廻転生だけは信じてきている。

 我々も輪廻転生を基盤とした人生観の再構築をするべきではないだろうか?