中観思想・学びのすすめのトピック

仏教の目的
2015/08/09
投稿者
来生
内容
 般若心経にこだわり続けて遠回りしたようである。仏教はその目的が明確であれば他は付随事項である。
 仏教の目的は「輪廻転生からの解脱」である。従って経典の多くは目的の主である「解脱」のノウハウについて多岐にわたって語られ続けたのである。
 その前に「輪廻転生」が真実、事実であることが大前提である。にも関わらず、何故か色々な注釈が付されて本来の解釈が否定されているのが日本仏教の現状である。
 目的には「輪廻転生」と「解脱」の二つの字句しかない。日本仏教には「輪廻転生」の統一見解が最も重要である。結論は明白である。文字通りの解釈でなければならない。
 即ち普通の人間の心はこの世とあの世の「生まれ変わり」が連続する(輪廻転生)ということである。
 仏教は心がこの世へ生まれ変わるのを防ぐ(解脱)ための教えであり、その他の何物でもない。それによって心とは関係のない、肉体が原因である「四苦」から解放されるのである。
 仏教は何はともあれ「輪廻転生」から始まる。

コメント 3件

来生
来生さん

2015/08/16 [19:16]

 既に結論が出ているのであとは蛇足であるが、なぜ「輪廻転生」が文字通りの解釈であるべきか、考察をしてみたい。
 仏教の目的が「輪廻転生からの解脱」であることは、周知の事項である。
 ただ現在は科学的に死後が無いとの主張をもとに「輪廻転生」を生きている間の変化ととらえて意訳しているのが日本仏教の現状である。
 勿論それを本来の文字通りの解釈している方も多くいるとは思うが、声が小さい。新聞記事などの論説でも「転生」を土台とした主張は皆無と言ってよい。
 もし死後がないとするならば、その「解脱」とは何を意味するのであろうか?全く理解に苦しむ。解脱を目指しても目指さなくても行先は同じである。
 転生があって初めて解脱の価値が生ずる。従って日本仏教での主流の解釈は誤りである。即ち科学的に死後はないという考えが誤りである。科学は死後についての実証が不可能であるから、「判らない」との判断が正しい。
 他の理由の一つに、「輪廻転生は釈尊が初めてではなく古代インド宗教が唱えているのであって、釈尊のはそれと違う」と言う主張がある。
 確かに釈尊は古代インド宗教のそれをただ鵜呑みにしたとは考えられない。
 東京新聞に連載された小説「親鸞(完結編)(342)」の中に、登場人物に「釈尊も苦行の中で試みられたという、生きながら気脈を断つ秘法だ。」と云わせているが、悟りを得た後の釈尊は、健康な身体のまま死ぬことが出来たと思われる。
 般若心経の最後の真言で「彼岸に往けり」と過去形で語っているのが、その証拠である。多分「梵天勧請」の逸話の寸前、「喜びのうちに生涯を終えたい」がその時期と思われる。
 従って彼は実体験によって輪廻転生を確信したと推定して間違いないと思う。
 釈尊自身、自分の何代も前の過去生を知っていたとの逸話が伝えられているのもその証拠である。また仏教用語に今生、他生など転生に由来する語句も多くあるし、死ぬことを「往生」と言い馴れているのは、まさに「往きて生まれる」との転生そのものである。
 彼岸に往ってきた人が興した仏教の輪廻転生は「真実」である。
 しかし後世の人々は、チベット仏教の僧侶でさえ輪廻転生を「信じている」程度である。「信じる」とは個人レベルの見解にすぎない。
 「真実」とは客観的で普遍的な誰もが否定できない、仏教をも離れた現実である。
 仏教に携わる人は、確信をもってすべての人々に輪廻転生を真実として説明し、その「解脱」を如何にすべきかを説くべきではないだろうか?


来生
来生さん

2015/08/23 [16:08]

 仏教からその目的である「輪廻転生からの解脱」を除けば仏教には何も残らない。従って「輪廻転生」が否定されると仏教そのものが存立しなくなる。
 何故なら、現世限りであれば、現世では肉体を伴わなければ生きていくことが出来ず、肉体による「生老病死」の四苦から逃れる術がなく、「解脱」という目的が達せられないからである。
 我々の知恵では、あの世を知ることが出来ないので、現世が唯一絶対的な存在として本能的に輪廻転生を拒絶する傾向があり、それを科学的常識?でカモフラージュしている。本能的であるだけに、多くの人の同意を得てそれが世間常識として通用しているのが現状である。
 科学自体、こと「生死」に関しては本能的直観が基盤になっている。
 例えば、心は脳で作られ成長するとされ、心は肉体の一部ととらえられている。(NHK「臨死体験(最新版)」)
 これは般若心経の「五蘊」の内容と矛盾する。
 我々の知恵と釈尊の智慧とが対立したときは、残念ながら釈尊の智慧に従うべきと考える。
 万巻の経文の大部分は、仏教の目的を達成するための「解脱」の方法論である。
 富士山の登山口が多々あるように、解脱の登山口としての経文は、各人の知恵の多少に応じて、段階的な教書が作成されたのであろう。日本仏教はその花盛りである。
 仏教の真理はすべて「般若心経」に集約されている。
 それに依れば「空(正確には空性)」が何かが判れば、悟りが開けることになっている。当時は科学的知識がなかったので、それを理解させる手段がなかったのであろう。そこで釈尊は一旦布教を諦めたのである。
 現在は科学的に「物質はエネルギーで出来ている」と誰でも理解できる。
「色即是空」は「e=mc^2」に対応している。正に真理である。
 従って現代人は誰でも容易に悟りを開くことが出来る。しかし悟りを開いても「解脱」は不可能である。悟りは知識であり、解脱は心のあり方の問題であるからである。
 解脱のためには昔の人と同じように修行する必要がある。どのような方法で修行するかはその人の知恵次第である。
 昔の人は、「空」も不明だったので、解脱の修行で「空」の認識も兼ねていたと思われる。
 般若心経に「照見五蘊皆空 度一切苦厄」とあるが、現世で「四苦」を除くことが出来たということではないと思う。「解脱」によって転生を防ぎ、結果的に肉体に依存する「四苦」から解放されたと解すべきだと思う。
 繰り返すが、仏教は「輪廻転生」を正しく理解してから、それを前面に押し出して布教すべきである。


来生
来生さん

2015/08/30 [22:34]

 仏教の目的を目指すことで、我々は人生の価値観が大きく変わることになる。
 即ち現世に再び生まれ変わることを防ぐのが目的であるから、現世は根源的に弱肉強食の世界で平和を望むべくもない「穢土」で、そこでの価値観は大きく低下する。
 来世(死後)の世界は肉体がないため、血生臭い生存競争の必要がない「浄土」であり、そこでの価値観の向上を目指すべく、現世をよりよく過ごさねばならない。それが「解脱」のための修行である。
 我々衆生には修行は無理としても、それに近づく努力は可能であろう。
 過日法華経のCD拡販の新聞広告で、「現世安穏後生善処」というキーワードが載っていた。
 最低、現世を安穏に過ごして人生を終えれば、他生は善処に生きるのであろうか?或は次の現世でよい環境に育つのであろうか?先ずはここから実践を始めるべきであろう。
 現世における「誇り高き人生」でも「恥多き人生」でも、すべてうたかたの夢と思い直せば、安穏に生涯を終えることが容易になろう。
 釈尊は肉体がエネルギーで出来ていることを発見して悟りを得たが、般若心経には受想行識もまたエネルギーで出来ていると述べているので、心にも質量があることになる。臨死体験の実例では約10メートル上空で自分の死体を眺めているそうであるから、通常空気とほぼ同じ重量かと想像される。しかし怨念の心はより重く、反対にストレスの少ない心はより軽いのであろう。心の化学構造は皆目不明であるが、縁起の理法によれば思いが無となった時、心はエネルギーに戻るのかも知れぬ。
 現世安穏とは心のストレスを下げた状態を続けることなのであろう。
価値観の転換によって現世へのこだわりがなくなり、衆生でも安穏に老後を過ごすことが可能である。
 仏教の目的に沿う心構えで生活すれば、我々でもせめて生まれ変わらない希望が持てるであろう。
                           以上