インドと釈尊【原始仏教関連】のトピック

念(sati,smṛti)について
2015/07/27
投稿者
金剛居士
内容
佐藤哲朗氏のまとめが興味深かった。

[現代仏教論]念(sati)についての考察
http://d.hatena.ne.jp/ajita/20090504

A.瞬間瞬間の気づき・注意・不放逸、
B.特定の(冥想)対象・法に心をかける、
C.単なる記憶作用。

のうち、A.が念(sati)の原義と見ていて、北伝仏教の四念処(四念住)はB,Cの意味から導かれた修道論と考えている。また、「北伝の阿毘達磨の説明では、四念処(catu-satipaṭṭhāna)と、他の隨念(anussati)の区別がつかなくなっている」と述べている点も重要である。

 私見では、「法念処」を「法を無我と念ずる」と説明する場合、確かに無我というアイデアが先にあって、それに従って法(もの)を観念するという随念になろうが、これは初歩的な段階の型式だろう。「無我である」というのは“ものの実相”を直視したオリジナルの体験であり、これが念頭に置かれている状態が「念」ではあるまいか。「無我」が単に聞かれただけのコトバにすぎない場合には、そのコトバにいろいろな観念が付与されて原義からはどんどん逸脱していくこともあるだろう。ところが、オリジナルはコトバを超えている。そして、コトバにこだわるな(オリジナルを直視せよ)というのが大乗仏教である。

 このような立場から言うと、

「そのような危うさを孕んだ「法念処」の解釈は、伝言ゲーム的に「法無我」を敷衍した大乗仏教の「法空」論へと受け継がれ、めぐりめぐって『般若心経』などにも影響を与える。」

というのはちょっといただけないな、と思う。「法無我」とか「法空」というのはオリジナルの体験なのであって、法を対象としたsatiの内容そのものなのではあるまいか。「パーリ・アビダンマでは、念は浄心にのみ相応する「共浄心所」に分類されている」そうなので、念のオリジナルな内容には戯論が含まれているはずはない。だが、そこに戯論等の煩悩が覆い被さって、我々が一般に意識できる「念」が現象している。大乗仏教の論はコトバの世界で上滑りしているという面もあろうが、それによって指し示そうとしているのは、オリジナルな「諸行無常」「諸法無我」の体験である。




~Φ 金剛居士 Ψ~
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