禅堂のトピック

車椅子で参禅するには?
2015/06/19
投稿者
貞太郎
内容
皆様ご無沙汰いたしております。貞太郎です。

実は皆様に言いそびれていたことがございます。(愚道さんとパンタカさんはご存じですが)身体障害者なのです。

私、幼児のときに脊髄性小児麻痺(ポリオ)にかかりまして、その後遺症といたしまして両下肢機能障害をかかえております。
この病気現在ではワクチンができて先進国では消滅いたしておりますが、私の罹患時(昭和30年前後)では全国的に猛威をふるっていたようです。いまでも発展途上国の一部では生き残っているようです。
簡単にいうとウイルスにより脊髄の神経が冒され手足の麻痺が発生いたしましす。
その後成長とともに体力がついてくると、奇跡的に残された神経が冒された神経をカバーし、少年期・青年期・中年期は残された神経でなんとか日常生活をおくることができます。
私の場合も物心ついた頃から松葉杖により歩行ができるようになり、大学も卒業、社会人生活をなんとか送ってきました。

ところがポストポリオ症候群という症状がございます。
初老期に入るといままで死んだ神経をカバーしてきた残された神経も疲れてきて、いままで支えられてきた運動が困難になるという症状が発生いたします。
私も数年前から運動機能の衰えを覚え、昨年、専門医に相談したところ、「もう松葉杖に頼るより車椅子を使え」というご指示が下されました。

完全に車椅子生活に入ってもう一年。

今年から厚生年金の受給がはじまり、いままで続けていた仕事も切り上げて時間的余裕ができてまいりました。
昨今では仏教書を読むことに専念いたしております。
近々のうちに読んだ書物を日記にてご紹介していきたいと考えております。

一方、書物の上では学び切れないものを、禅にて学んでいこうと考えていた矢先のことでございます。

車椅子では禅堂には上がれないと思います。
(宅内はこういうことも予想し完全バリアフリー化しております)
結跏趺坐も無理でございましょう。

どうしたら、禅行を行うことができるでしょうか?

もっと身体の効いた時に参禅していれば良かったかと思うことしきりです。

諸兄姉のアドバイスをお願い申しあげます。

コメント 6件

金剛居士
金剛居士さん

2015/06/25 [00:03]

貞太郎さん、こんにちは。

私の場合は体が固くなって足が組めなくなってしまいました。私もこのトシではもう坐禅は無理なのでしょうか・・・・。

冗談はさておき、結跏趺坐のほうが上体がしっかり固定されることは確かです。しかし、長時間組んでいるのは大変ですから、私の場合はほとんど半跏趺坐で坐禅をしていました。

姿勢に関しては、どれだけ安定感のある腰の状態を保っていられるかが重要ポイントでしょうね。そして、骨盤の上に乗っかる上体は真っ直ぐに保って可能な限りリラックスさせます。弥勒菩薩は椅子に座って片足を下げて瞑想しているくらいですから、姿勢に関しては臨機応変にやればいいのではないかと思います。

坐禅で何をするのかと言えば、空を悟る(あるいは仏になる)ことです。そのために、臨済宗のように公案に全身全霊で取り組んだり、曹洞宗のようにひたすら坐ることに徹したりすることがありますが、あえて既成の坐禅スタイルにとらわれずとも、諸行無常・諸法無我に思いを寄せてそれを自分のこととして受け容れていく精神作業をすれば良いのではないかと思います。

重要なのは足の置き方をどうするかではなく、むしろ精神作業のほうだと思いますよ。仏法を思惟するために自分の体の存在を忘れられるくらいになるのがベストであり、まずは、そのような身体状態を探っていくことに注意を向けてみたらどうでしょうか。


貞太郎
貞太郎さん

2015/06/28 [13:28]

金剛居士さん、ご回答ありがとうございます。遅レス申し訳ございません。

半跏像、確かに片足だけですね。
椅子に座って片足だけ組む。これなら、わたしもできます。

>姿勢に関しては、どれだけ安定感のある腰の状態を保っていられるかが重要ポイントでしょうね。そして、骨盤の上に乗っかる上体は真っ直ぐに保って可能な限りリラックスさせます。

これに関しては偶然にも、週2回理学療法士のリハビリを受けていますが、これに即した訓練をしています。
座禅に限らず人間生活を送っていく上で必要なことなのでしょう。
座り方については決まりました。

>諸行無常・諸法無我に思いを寄せてそれを自分のこととして受け容れていく精神作業をすれば良いのではないかと思います。

師匠なしで座るわけですから、まずは形からはいるとともに、もう一度諸行無常・諸法無我の思考を徹底させていくことが必要でしょう。禅ですから「思考」ではだめですね。

>仏法を思惟するために自分の体の存在を忘れられるくらいになるのがベストであり

これは道元禅師の説いた道ではないでしょうか。

今日から、実行いたします。
ありがとうございました。


金剛居士
金剛居士さん

2015/06/29 [17:50]

貞太郎さん、こんにちは。


>もう一度諸行無常・諸法無我の思考を徹底させていくことが必要でしょう。禅ですから「思考」ではだめですね。

論理的思考を初めとするあまり粗大な思考はダメですよね。しかし、一挙に心を空っぽにするとか無心になるというのは無理な話ですし、必ずしもそれが最善の方法だとも思えません。

諸行無常・諸法無我という真理を拠り所(基準)として、それに照らして自分自身と自分の人生とを振り返るというのでも良いのではないでしょうか。あまりしっかり考えずに、思いついたものを仏教的真理に照らし合わせるという程度でいいと思います。


>>仏法を思惟するために自分の体の存在を忘れられるくらいになるのがベストであり

>>これは道元禅師の説いた道ではないでしょうか。

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。 自己をならふといふは、自己を忘るるなり。 自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるといふは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむなり。 」

私見では、この場合の「自己」は、自己の肉体イメージも含む「自己意識」と言っていいと思います。そして、「ならふ」は「なぞる」の意味に取るといいと思います。仏道と自己とをなぞりつつそれらを照らし合わせていくうちに、自己のほうは空ぜられていきます。

師匠なしで坐ることに反対する人は多いでしょうが、坐らないより坐ったほうがましですし、そもそも懇切丁寧に指導してくれる師匠に出会うことはほとんどあり得ませんから、仏陀が残した法を拠り所として自分なりに工夫して修行するのがいちばん良いと思います。





~Φ 金剛居士 Ψ~
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貞太郎
貞太郎さん

2015/06/30 [13:37]

>仏道と自己とをなぞりつつそれらを照らし合わせていくうちに、自己のほうは空ぜられていきます。

>師匠なしで坐ることに反対する人は多いでしょうが、坐らないより坐ったほうがましですし、そもそも懇切丁寧に指導してくれる師匠に出会うことはほとんどあり得ませんから、仏陀が残した法を拠り所として自分なりに工夫して修行するのがいちばん良いと思います。

「自燈明」「法燈明」ですね?

とりあえず、空観を復習いたします。

余談ですが、とんでもない師匠に座禅を教わりだめになった人もいるとききます。


乱義
乱義さん

2015/07/02 [12:56]

寝坐禅なども有ります。形から入るのが普通ですが、個々の状態に合わせて椅子坐禅でも寝坐禅でも自分で時間を決めて呼吸に意識を傾けてみたらいかがでしょうか? 無功徳ではありますがそれを確かめるのも良いかも 
 寝坐禅で検索するといろいろ出てきますのでご自分に合った説明を取り入れられたらと思います。


金剛居士
金剛居士さん

2015/07/04 [18:50]

貞太郎さん、乱義さん、こんにちは。

私はもう十年以上も寝坐禅専門ですが(笑)、それは阿頼耶識の種子を現行させやすい(?)からです。自己の深層の心の流れを観察していくには、夢うつつの中でやるのが最適だからです。途中で眠ってしまうこともしばしばですが、どうせ坐禅は無功徳ですから。(笑)

お仕事で印可を受ける必要がある人以外は、必ずしも形から入る必要はなく、たとえまねごとで終わっても、「とりあえずやってみる」ことに意義があるような気がします。宗教的センスのある人なら、工夫しながら続いていきますからね。

初心者は呼吸法から入るのがいいでしょうね。ある程度心が落ち着いてきたら、その状態のままお経を唱えて瞑想を終えるという方法もいいかもしれません。




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