三密堂【密教関連】のトピック

『般若心経秘鍵』10
2014/01/16
投稿者
愚道
内容
「何ぞ能く三顕の経を呑まん。
 如来の説法は一字に五乗の義を含み、一念に三蔵の法を説く。何に況んや、一部一品に何ぞ匱しく何ぞ無からん。亀卦爻耆、万象を含みて尽きること無く、帝網声論、諸義を呑みて窮まらず」

これを現代語訳すると、

「なぜ『般若心経』に、『有と空を超えた真実のとらえ方が中道にある」という、三顕の教えが含まれるのでしょうか?
 如来の説法には、一つの文字に、人・天・声聞・縁覚・菩薩という人々の傾向の違いに応じた五つの教えが含まれ、一念に経・律・論の三蔵のすべてが説かれています。ですから、この『般若心経』の一部一品に、どうして内容が乏しく説き足りないということがありましょうか。亀甲や筮による占いは、すべての現象について判断を示すことができて尽きることがなく、帝釈天の宮殿を飾る宝の珠網や帝釈天の声論のように、『般若心経』は仏のすべての教えを包含して説き足りないということがありません」

となります。
帝網とは帝釈天の宮殿を飾る宝の珠網で、そこについている宝珠の一つは、帝網のすべての輝きを映しているとされます。また、帝釈天の声論は帝釈天の声による説法で、一言に限りない意味が包含されているとされます。

コメント 5件

金剛居士
金剛居士さん

2014/01/17 [20:13]

愚道さん、こんにちは。


>一字に五乗の義を含み

空海はあいかわらず大げさだなあと思いますね。いくらなんでもたった一字では深遠な意味はほとんど伝わらないでしょう。・・・と思ったりもするのですが、たとえば「空」の一字は人・天・声聞・縁覚・菩薩で、それぞれ捉えるイメージが違いますね。

人の場合は、ひどい誤解をする場合も。(^^; 声聞や縁覚は、「空」を虚しさに近いものに捉えるかもしれませんが、菩薩はもっと快活なものとして捉える場合もあるかもしれませんね。

仏陀が自分の言葉にいろいろな意味を含ませて説法したというよりも、聞き手のほうが自分の器で解釈して、そこにそれぞれの救いを見いだした、というのが実態ではないかと思います。

空海の表現をそのまま受けとってしまうと、仏陀が過剰に神格化されてしまうような気がします。


ちなみに、帝網は縁起を、とくに「一即一切、一切即一」という華厳教学を連想させますね。




~Φ 金剛居士 Ψ~
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愚道
愚道さん

2014/01/18 [00:06]

金剛居士さん、こんばんは。

おそらく空海の言う「一字」は梵字の「一字」なのではないかと思います。梵字の場合は、一字でいろいろな意味を持ちますし、「阿」の一字に至っては胎蔵大日という宇宙の真理そのものの広大無辺な智を表してしまいますので。

あとは、それくらい、経文の一字は重いのだぞということでもあるでしょうね。


金剛居士
金剛居士さん

2014/01/21 [19:48]

愚道さん、こんにちは。


真言宗的にはたぶん梵字の一字なのでしょうね。しかし、ここはサンスクリットと漢語とが微妙に重なって意味されているように思えるのですよ。

まず、梵字の一字は一音節です。そして、漢字の一字も一音節です。ところが、漢語は一字で単語(名詞や動詞)を表わすことができるのに、サンスクリットでは一般に一字では単語を表わすことができません。

そこで、サンスクリット一字だけでは人・天・声聞・縁覚・(顕教の)菩薩には何も伝えられないことになります。その一字だけで何かを理解できるのは密教行者のみです。そうすると、如来の説法は五乗のほとんどにとって意味が無いものになってしまうでしょう。大日如来の説法というのはそういうレベルのものだというのなら、それでもいいのですが、そうすると、「それでなぜわざわざ般若心経を解説するの?」という話にもなってきそうです。

般若心経は、単語や句の集まりとして五乗に理解されるから意味があるのであって、一つ一つの音節が五乗に意味を理解させるのではないでしょう。

たとえば、「ア」と「イ」が結びついて「アイ(愛)」となったときには、密教とはまったく違う意味が生じてきます。さらに別の音節が付加されて、「慈愛」となったり「愛着」となったりしたときには、やはりその愛に微妙なニュアンスの違いが生じてきます。それがさらに句になり文になれば、その前段階の構成要素には無かった新たな意味が生じるのではないでしょうか。

このように音節がつながればつながるほど新たな意味が生じてくるのですから、一音節にすでにそれらの意味が内包されているというのは、常識的には(顕教的には)かなり無理があるような気がします。もっとも、それが密教なのだ、という理解のしかたはあると思いますけどね。

私としては、むしろ一字=一語の中にはじめて特定の意味が含まれると考えたほうが、空海が訴えかける読者に対しては通じやすいと思います。読者は漢文の般若心経を誦していたのですからね。「空」のみならず、「色」だって「生」だって「滅」だって、それぞれに深い意味が込められています。「涅」や「槃」となると、それ自身には意味がないですが。(^^;

ちなみに、サンスクリットの阿(a)は、語頭に挿入されて「無」(否定)の意味になります。般若心経に出てくる「無」は、ほとんどの場合はnaの翻訳ですが、「無」こそが般若心経の核心だとも言えますね。あらゆる存在の実体性を否定していく「無」は、まさしく万有に浸透した仏教の根本原則です。

サンスクリットの場合には、一音節の語根も多いですが、「その語根がさまざまな意味をすでに内包していて、それに接頭辞や接尾辞が付加されてその隠れていた意味が顕現する」という考え方もありだとは思いますよ。でもまあ、空海が想定していた読者を考えると、この「一字」はやっぱり漢字一字(=一語)くらいに解釈するのが妥当かな?とも思います。


私の場合は、あえて密教的解釈と顕教的解釈との間を行ったり来たりして『般若心経秘鍵』の価値を高めようと思っていますが、愚道さんの場合は密教的核心に斬り込んでいってもらって結構ですよ。たとえ話が平行線でも、両立していればいいわけですから。


愚道
愚道さん

2014/01/23 [18:19]

金剛居士さん、今晩は。

空海は般若心経を一つの陀羅尼として捉え、それで、一字一字を梵字と観じ、一字に五乗を含むとしたのだろう、というのが私の考えです。そして、その陀羅尼の核心が「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボウジー ソワカ」なんだろうと思います。

密教では「ラ」字を「火」と見ると同時に、「塵垢」の頭文字とし、字義として「火で塵垢を焼き尽くす、塵垢不可得」とするという、非常にペダンティックなところがあります。

これは「ア」も「ヴァ」も「カ」も「キャ」も同じですよね。その辺を勘案しておかないと『般若心経秘鍵』は理解しづらいのではないか、というのが私の考えです。


金剛居士
金剛居士さん

2014/01/27 [18:24]

愚道さん、こんにちは。


塵垢はラジャスですね。インド思想では、存在するものの性質をサットヴァ(純質)・ラジャス(激質)・タマス(翳質)に分類しますから、活動し変化していく性質のものを密教では五大のうちの火に対応させたのだろうと思います。

このように、サンスクリットを知らないと密教の意味するところが分からないはずなんですよね。そして、もし般若心経全体が陀羅尼ならば、般若心経を梵字(サンスクリット音)で観じないとその本当の意味が分からないはずなんですよ。梵音と中国音とでは音がそもそも違うわけですから、唱えても同じ効力(功徳)があるとは言えません。

また、「ギャテイ……」のみが陀羅尼ならば、少なくともその一字一字に関してはサンスクリット音と関連させて解釈があってしかるべきなのに、そんな解釈は寡聞にして知りません。

そのような解釈が高野山に秘伝として伝わっているのか、それとも神秘主義的な思い込みにすぎないのか。般若心経に関してはむしろ後者だと思うのですが、他の真言に関しては一音(一字)に千理を含むということはありうると思います。

ちなみに、「五乗の義(artha)」という場合、それは五乗がそれぞれに理解する顕在的な意味(artha)ではなくて、五乗が目指す対象(artha)という意味にとるならば、仏陀は五乗の最終目標たる涅槃を語っているのですから、一音一音がその対象を指し示しつつあるのだという考え方は妥当でしょうね。

ところが、密教行者以外の五乗が、サンスクリットの一音一音で涅槃が指し示されているのだと理解できたかどうかが問題です。やはり語・句・文のレベルまでいかないと理解できなかったでしょう。でも、その一音一音によって涅槃へと誘(いざな)われているのだということは直観的に分かったはずであり、その意味で愚道さんがコメントした「それくらい、経文の一字は重いのだぞ」という見方は正しいと思います。

さっぱり意味も分からないのに、涅槃へとただただ誘われているというのは、読経に伴う不可思議な体験であり、その意味では、ちんぷんかんぷんな漢訳の般若心経も、ただただその声がありがたいのだということはあり得ます。お経も真言も、無意味でも一向に差し支えないわけで、ただただ“仏にまつわる音がありがたい”という信仰があってもいいでしょうね。

私にとっては、意味を超越したそのような信仰的な感応道交が密教なのであり、それはすべての宗派の根底にあるだろうと思っています。