インドと釈尊【原始仏教関連】のトピック

上座部仏教も部派仏教
2013/11/28
投稿者
愚道
内容
日本テーラワーダ仏教協会というスリランカ系の上座部仏教の団体が日本にもできて、ここが「根本仏教」を名乗っているようです。

「根本仏教」とは、ほぼ「原始仏教」と同義語ですが、原初の仏教という意味と同時に根本(真実)の仏教という意味合いがあるでしょう。おおよそ学問の世界では、今は「根本仏教」というのはあまり使わず、「原始仏教」が主ですが、これは釈尊と直弟子たちの仏教という意味で使われます。

釈尊と直弟子たちの仏教の時代は、当然、釈尊の直接の教法が実践されていました。ところが、直弟子たちもすべて亡くなってからしばらく経ち、戒律への見解から仏教教団は2つに分裂します。これを根本分裂と言います。保守的な長老派は「上座部」と言われ、革新的な者たちは「大衆部」と呼ばれました。ここから「根本仏教」ではなく「部派仏教」の時代が始まります。

しかし、この分裂は
の問題からさらに広がり、上座部の中でも、大衆部の中でも細かく分裂していきます。これが枝末分裂です。おおよそ20くらいの部派に分かれたようです。まさに部派仏教の百花繚乱時代で、それぞれにアーガマ(ニカーヤ)、つまり経典を編纂し、律蔵を編纂し、論書も編んでいきました。

その上座部系の分裂したものの中に「分別説部」という弱小部派がありました。これがスリランカに伝わり「(南方)上座部」(テーラワーダ)仏教を名乗り、独自のパーリ語による五ニカーヤを編むのです。これが南伝五ニカーヤです。そしてこの派の仏教が東南アジアに伝播します。

要するに、スリランカの上座部仏教も部派仏教時代にできた1部派の末裔でしかないのです。そしてその修行も五世紀ごろに登場した、ブッダゴーサの著した『清浄道論』に基づいたもので、釈尊直説のものとはいいがたいのです。したがって、南方上座部仏教も根本仏教とはとても言えないのです。

コメント 3件

貞太郎
貞太郎さん

2015/06/27 [11:15]

愚道さん。2年も立ってのコメントです。当時テーラワーダ仏教のことあまり知らなくて見落とししていました

テーラワーダ仏教も釈尊入滅後、1,000年もあとの成立ということですか?大乗の成立より新しいと言うことですか?

最近、アマゾンで検索してみるとA スマナラーサ長老はじめテーラワーダが目立ちます。
我こそはブッダ直伝の教えだみたいにいっているように見えるのですが。

この間読んだ「アップデートする仏教」ではもともと曹洞宗の禅僧(仏教1.0)が、ミャンマーの僧院にて比丘となりテーラワーダ(仏教2.0)の瞑想を習得し、1.0と2.0の相違を相克し仏教3.0にアップデートする。
これはこれで一つの道であるとは思うのですが。


金剛居士
金剛居士さん

2015/06/29 [17:48]

貞太郎さん、横レス失礼。

愚道さんとはちょっと意見が違うようなので、私もコメントしておこうかと・・・・。(^_^ゞ



テーラワーダが部派仏教だというのは愚道さんと同じ見解ですが、原始仏教の形を留めているのは大乗仏教よりもテーラワーダだと思います。

仏教は自覚覚他の教えですが、そもそもゴータマ仏陀が悟りを開いたときには他者には自分の悟りが理解できまいと思って覚他の道を放棄しようとしていました。ところが神話では、梵天勧請によって「理解できる人には語ってみよう」と自らの考えを翻しました。最初に法を説いたのはかつての修行仲間(出家者)であり、一般人ではありませんでした。そののち説法した相手もまた、最初は在家者であっても、法を聞いて出家することが多かったと思います。つまり、ゴータマ仏陀の宗教は、もともと宗教的エリート相手だったのです。

ところがゴータマ仏陀の名声も高まり、やがて在家の人々も在家のままで仏教を信仰するようになります。これとても説法を受け容れる“ものわかりのいい”人を相手にしていたわけです。テーラワーダは、この段階の仏教を継承していると思います。

ところが大乗仏教になると覚他の対象が一切衆生にまで一気に拡大されますので、“ものわかりの悪い”人までも救おうとして仏陀イメージは理想化されていきます。法華経は、そういう人たちをも方便によって救おうと宣言したものです。まあ、ウソも方便で(^^;とにかく仏教世界に引き入れようとするわけです。ところが、エサに釣られて浄土に至れる衆生はまだいいほうで、エサに食らい付けないくらい無能な衆生も救おうと、阿弥陀仏信仰が発生したりもします。南無阿弥陀仏という六字名号の霊的なパワーで誰でも浄土に行けるというわけです。また密教では、反抗的な衆生までも力づくで浄土に引き入れようとしました。

これらはもともとゴータマ仏陀が説法の対象としていなかった人々なので、大乗仏教は原始仏教からは一部完全に逸脱しています。また、文字通りそこまで覚他できる仏陀には誰もなれるはずがなく、やがては自覚の側面が軽視されて、仏教は救済の宗教に変容していきます。

しかし、大乗仏教のエリート中のエリートは、中観と唯識の道を切り拓いていきました。一切衆生を救済するためには、個人に実体が無いという「人無我」のみならず、一切の法に実体がないという「法無我」も自ら悟り、他者にもそれを悟らせなければなりません。法無我は大乗仏教固有の教えですので、テーラワーダは扱わないのだろうと思います。スマナラーサ長老の般若心経に対する無理解から、その一端が窺われます。


ところで愚道さんは、ゴータマ仏陀はすでに大乗仏教的な境地を説いていたという立場のようです。歴史上の人物であるゴータマ仏陀は、いわば同時に久遠実成の仏であったと考えているのでしょう。そして、テーラワーダなどの部派仏教はゴータマ仏陀を矮小化して伝えていると見なしているのだと思います。






~Φ 金剛居士 Ψ~
当SNS入会希望者は http://buddhism.sns.fc2.com/
ブログ發心門 http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/
お薦め仏教書 http://kongoukoji.fc2web.com/


貞太郎
貞太郎さん

2015/06/30 [14:00]

はい、金剛居士さんのおっしゃることは分かります。成立の事情はさておき釈尊の教えにより近い(イコールではない)実践の方法はテーラワーダだと愚考いたします。
ただし、大乗が釈尊の教えに背いているかはクエスチョンです。

>愚道さんは、ゴータマ仏陀はすでに大乗仏教的な境地を説いていたという立場のようです。
というのはいかがでしょうか?ご本人に聞いてみないとわからないと思いますが、愚道さんのお書きになったものから、それは感じられません(少なくとも私には)。

>個人に実体が無いという「人無我」のみならず、一切の法に実体がないという「法無我」も自ら悟り、他者にもそれを悟らせなければなりません。
ここです。私のテーラワーダにものたりないものを感ずるのは。

「衆生」の多くは「エリート」ではありません。たとえば、釈尊のそばにおり宗教的エリート(智惠第一といわれた)シャーリプッタなどは解脱できたでしょう。また、大乗のエリート、龍樹・世親などもしかり。
しかし、はるか後世の私のような落ちこぼれをどうしても済度しようとするのが大乗ではないでしょうか。それが密教であれ法華・浄土であれです。

「アップデートする仏教」で既存の大乗(1.0)から釈尊の教えにより近いテーラワーダ(2.0)にアップデートし、その相克の上にもう一度大乗(3.0)へという道を選択したという意味もあると思います。
(私は盲目的に同書に同意するものでないことは申しあげておきます)