仏教喫茶室のトピック

梵天勧請と十二因縁
2013/10/22
投稿者
愚道
内容
 釈尊が有余依涅槃を得た時、梵天が降臨し、その真理を人々に説くように三度進言し、それが聞き届けられて、釈尊は人々に布教する気になったと言われており、その詳細は『長阿含経・大本経』に説かれている。ここでは、釈尊が自らの体験を毘婆尸仏の体験に付託して説かれている。

 その真理とは仏教の真理であるが、特にその中のどれに重点が置かれているのかを観ていくと、どうも十二因縁のようである。
 まず、仏は「無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死」の十二因縁を「生から老死がある。生は有から生じる。有は取から生じる。乃至、行は無明から生じる」と観じていき、次に「生がないから老死がない。生が滅するから老死が滅する。有がないから生がない。有が滅するから生が滅する。取がないから有がない。取が滅するから有が滅する。乃至、無明がないから行がない。無明が滅するから行が滅する」と観想していく。
 この十二因縁の観法により、阿耨多羅三藐三菩提が得られると同経では説かれる。

 そして、続く偈頌には、
「十二因縁は非常に深遠で、見ることも識(し)ることも難しい。仏だけが覚(さと)ることができる。(原因が)あるかないかによるということを、もし自ら観察することができれば、さまざまな受容はない。原因(の連鎖)を深く見極めれば、もはや外に師をもとめることはない」
 とある。

 そして、偈に続いて梵天勧請があり、仏は、
「私はお前たちをかわいそうに思うので、今、甘露のごとき真理の門を開くことにする。この真理は深遠で奥深く、理解するのが難しい。今、これを信じ受け入れて聞くことを願う者のために説こう。(教えを聞いても)惑乱して益なき者のためには説かない」
 とある。

 南伝の資料を見ても、梵天勧請で教えることをためらったのは因縁の道理となっている。これは因果律と同時に十二因縁も含んでいると見てよいだろう。
 仏教の事象を考察する場合は、やはりきちんと経典に依るべきで、自分の憶測だけを依りどころとするのは、まさに謗法ということになるのではなかろうか。

コメント 7件

金剛居士
金剛居士さん

2013/10/24 [22:18]

愚道さん、こんにちは。

龍樹は『中論頌』(24:18)で「およそ縁起しているもの、それをわれわれは空性と説く。」(三枝充悳訳)と言っていますから、ゴータマ仏陀は空性を覚ったといっても間違いではないと思いますが、その空性を説明しようとすると、「空性=エネルギー」ではなく(笑)、十二縁起になるんでしょうね。


>十二因縁は非常に深遠で、見ることも識(し)ることも難しい。

十二支の一つ一つを知的に理解するのはさほど難しくありませんが、それらが生じては滅していくダイナミズムは「見ることも識(し)ることも難しい」でしょうね。これにはかなり深い禅行が必要です。





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愚道
愚道さん

2013/10/24 [23:20]

金剛居士さん

結局、空にしろ、縁起にしろ、理論を理解するのはさほど難しくありませんが、観行等を行じ、それを体得するのが難しいわけですよね。まさに、違うトピックで私が述べた、理行事の空です。理解し、行じ、体得する。その行と事が難しいわけです。

まぁ、理の空さえ得られず、迷路に入ってしまう人もいますけどね。(^_^;)
やはり仏教は実践によって理を事に変える作業が不可欠です。だからこそ、釈尊は三十七菩提分法を説かれて、それを弟子たちに実践させたのだと思います。もっと大まかに言えば戒定慧の三学ですね。

結局、実践がない人は戯論の垢にまみれてしまうのだと思います。


愚道
愚道さん

2013/10/25 [17:04]

金剛居士さん

一点忘れていました。(^_^;)

>その空性を説明しようとすると、「空性=エネルギー」ではなく(笑)、
>十二縁起になるんでしょうね。

そうでしょうね。
「空とはエネルギー」ではなくて、
「エネルギーも空」なんですよね。(^_^;)

「五蘊」とは『佛教語大辞典』を見ても分かるように、「あらゆる存在を五つの集まりの関係においてとらえる見方」ですから、「五蘊」と言おうと「諸法」と言おうと同じで、構成要素の視点から言えば「五蘊」、総体としてみれば「諸法」になるだけですよね。
ですから「五蘊皆空」も「諸法皆空」も言っていることは同じ。

物質的範疇も心の範疇もすべて「空」。もちろん、エネルギーも空。形にできない感情も意識も思念もすべて「空」。

すべてが縁によって生じ、縁によって滅する。すべてが縁起である。それが「空」なのですよね。


金剛居士
金剛居士さん

2013/10/25 [22:10]

愚道さん、やっと有意義な仏教談義ができそうです。(笑)


理行事でいうと、空の「理」を自分の人生や実存の中で捉え直したものが空の「事」だと思います。

換言すれば、「空とは何か」と一般的な観点から説明するやり方が「理」であり、また、「私の人生で起こったこういうことが空、ああいうことが空、そして、今こうやって私が存在していること自体が空」というように、私の生きているその場に即して、あらゆるところ、あらゆる瞬間に空を見いだしてそれと一体になるのが「事」だと思います。

行が進んだ人々は「事」を語りますし、それが本来なのでしょうが、それだと断片的で、空の全体像を把握できず、しばしば誤解されてしまいます。「だから仏門に入って厳しい修行をしなければ空は分からない」というのも事実でしょうが、そんなことをしている暇は無い現代人にとっては、一般的な文脈で知的に理解できる空の「理」の解説が必要なのではないかとも思ってます。

「理」によって仏教の目指すだいたいの方向を知り、目標としての「事」を観察すれば、「行」のあるべき姿も見えて来るのではないか。「理」は仏教の解説本によって以前より把握しやすくなってきていますが、「事」を深く実現している僧侶がどれだけいるのか。サンプル(具体例)がないと抽象的な説明では理解しにくいという問題がありますよね。「理」をだいたい理解した人が「なるほどこれが空の成就なのか!」と思える人物(目標)が身近にいないと、あるべき現実の方向が定まらずに、空理空論に陥って空回りしてしまう傾向があります。

もし外に目標となる人物がいないのなら、せめて空理に則して自分なりに禅行を重ねてほしいですし、あるいは念仏や経を唱える行を行ってほしいと思います。そこに空の境地がほのかに見いだされるかもしれないですから。それを完全に排除すると、たいてい邪論になってしまいます。





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愚道
愚道さん

2013/10/26 [16:10]

金剛居士さん

昨夜、発言した内容が消えちゃっています。(^_^;)

『涅槃経』に「信あって解なくんば無明を増長し、解あって信なくんば邪見を増長す。信解円通してまさに行の本となる」とありますよね。

行の土台は信と解(理解)。信と解をそろえて本当に仏道の行が始まり、行を重ねて、菩提へと行き着く。また行によって、信と解は確固たるもになるとも言えるでしょう。

凡夫のくだらない戯論など捨てて、経に真摯に向き合い、それを理解し、その中に説かれている行を実践しなければ、とうてい仏さまのつかまれた真理などには到達できませんよね。

行もせずに自分の戯論に陥っている人は、まず真摯に仏に向き合い、自分の見解の浅さが分かるまで、読経なり、写経なり、参禅なりをするべきなんだろうと思うのですが、戯論に陥っている限りそれができないのですよね。


金剛居士
金剛居士さん

2013/10/26 [21:21]

愚道さん、こんにちは。


>信あって解なくんば無明を増長し、

この場合の「信」は、何であれ受け容れる心を意味しているのでしょう。そして「解」は、仏教的真実の理解です。知的な理解による正誤の判断が無いと、いずれは鰯の頭に御利益を求めるようになります。


>解あって信なくんば邪見を増長す。

この場合の「解」は、誤解・曲解も暗に含んでいるのでしょうね。そして「信」は、仏教的真実を受け容れる心を意味しているでしょう。この心が無いと、知的な判断は暴走します。

これは、一般の哲学と宗教哲学の違いなんだろうと思いますね。キリスト教哲学も、論理的に見えてじつはキリスト教信仰を外れないように論理を利用しているだけ。仏教思想もまた、仏教的真実を拠り所とし、そこから離れないように思想を論理的に構築しています。

世の中には論理に基づいた別の思想展開があっても悪くはないと思いますが、それは仏教的な真実ではないものに基づいています。だからいくら論理を極めて言葉を尽くしても、それでは菩提や涅槃には至らない。それは仏教の立場からすればまさに戯論でしかない。そういう人に向かって仏陀なら、「どうぞご勝手に」で済ませるのでしょう。






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愚道
愚道さん

2013/10/26 [22:09]

金剛居士さん

まさに戯論を弄する人には、そっけなく言えば「ご勝手に」になるでしょうし、丁寧に言えば「喝! 自分の計らいを捨てよ」となるのでしょうね。

結局、誤った見解に陥るのは、素直にお経と対峙しないからだと思います。お経と四つに組んで格闘するならば、そうそうは横道には逸れません。

「教行信証」の道もあれば、「信解行証」の道もあると思いますが、いずれにせよ凡夫の計らいは捨てねばなりませんね。