禅堂のトピック

臘八接心
2011/12/08
投稿者
金剛居士
内容
 臘八接心とは、釈迦の成道(じょうどう)を記念して、陰暦12月1日から8日の朝まで昼夜を問わず絶え間なく坐禅をする修行のことです。

 さあて、禅のお坊さんたちは悟りを開けましたでしょうか。私なんぞは1日の徹夜も勘弁してもらいたく、翌日は必ず昼間から寝ないと体調が狂ってしまいますので、臘八接心なんてまっぴら御免です。(笑) 

 しかし、たとえ居眠りしてしまっても禅定行に精進することは仏道修行にとって必要なことでしょうし、まあ、ゴータマ仏陀が悟りを開く前の苦行だと思ってやっていればいいのではないかとも思います。

 私に言わせれば、臘八接心は中道を外れていると思うのですが、しかしながらゴータマ仏陀が悟りを開くために苦行が不可欠であったように、多少やりすぎの修行があってこそ普段の坐禅行で中道を得やすいのではないかと思います。そもそも人間は怠惰に流れやすいものですから、怠惰と中くらいの精進との真ん中を中道だと思ったら、ぜんぜん修行になりません。怠惰とバカ精進との中間あたりが正精進なのだろうと思います。

 
 さてさて、禅でいう心は、唯識仏教でいう心すなわち阿頼耶識とは違います。むしろ仏性に近い概念でしょうね。心の本当の姿すなわち菩提心(悟った心)といってもよいと思います。密教でいう如実知自心もまた菩提心を指しています。

 ですから、接心とは悟りに触れることでもあるわけです。悟りは心とは別のところにあるのでしょうか。否。空となって働いている心がそのまま悟りです。逆に、空になりきれずに淀み、留まってしまう心が迷いです。自心の外に悟りを求めても得られず、かといって自心に囚われても悟りを得られません。

 臘八接心は身心の限界に達することで心を空にする(心にこだわってなどいられなくなる)修行ですが、そのときしか空を得られていないとしたら、聖者は無理がたたって身心がボロボロになってしまうでしょう。ところが、一度たりとも空がわかれば、それに沿うように穏健な修行を重ねていけばいいわけで、そのような“心の空の手本”を得るのが臘八接心だと言えるのではないでしょうか。

 では、なぜ毎年やるのか。きっと人間は物忘れが激しいからなんでしょうね。(^^ゞ




~Φ 金剛居士 Ψ~
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コメント 2件

乱義
乱義さん

2011/12/09 [10:00]

個人的には
苦行とは感じた事はないなぁ

きつい事はきついけどね
座睡もできるし食べ物は豊富だし

目は見えていても見えてない
音は聞こえてても聞こえてない


いわゆる五感と脳が切り離された感じはなかなか体験できない
ただボーとしてるのとは同じのようだけどちょっと違うのかな

まぁそんな感じはある程度の追い込みは必要なのかな

それ以前に足の痛みとの戦いですけどね(笑)
これも 切り離されて どこか遠いところで痛いのかな?
になってくる。

とはいえ一年目はやっぱり大変です
目的意識が無くただ大変につきあってる感じ。

2年目からは次に答える答え探しで
これも大変だけどね。
疲れた頭でじっと考えるのが
怪しい物質が脳から色々分泌されちゃってる気もする。

五日も経つと幻覚が見え始めてなかなか面白いよ。


金剛居士
金剛居士さん

2011/12/12 [23:56]

乱義さん、貴重な体験談ありがとうございます。


>個人的には苦行とは感じた事はないなぁ

 乱義さんはきっと体育会系なんでしょうね。この種の体験はランニング(またはマラソン)に喩えられるかなあと思いました。

 ランニング・ハイという現象は脳内にエンドルフィンが出ているからだそうで、結局、肉体が苦痛だから脳内麻薬を出して痛みを緩和しています。どちらかというと文化部系の私はランニングは苦行以外の何ものでもないと思っています。(笑)

 集中的な坐禅はそこまで肉体を痛めつけるわけではありませんが、私の場合は、脳の極度な疲労は勘弁してほしい。それに、集中的な坐禅は自我意識を感覚体験から隔離してしまうように思います。ま、自我意識から感覚を抜きさって空っぽな意識になるから無我なのかもしれませんが。(^^ゞ この状態は意識が清明で非常に気持ちが軽くていいですよね。

 それと、主体的に関わっているか強制されているかでも違いが出てきますね。同じ作業でも、仕事にもなり労役にもなります。


>五日も経つと幻覚が見え始めてなかなか面白いよ。

 成道直前のお釈迦さまも悪魔とお話なんかしちゃってるしぃ~。(笑) その真偽のほどはともかく、幻覚が現われた時にはそれにどう対応するかが重要ですね。その対処の仕方が修行のバロメーターのような気がします。


>2年目からは次に答える答え探しで

 これはいかにも臨済宗という感じですね。曹洞宗のお坊さんだと、ただひたすら坐るだけなんでしょう。私としては公案の答えはすべて「無」だと思っていますので、両宗の目指しているところは広く捉えれば全く同じ。工夫して無に至ろうとするか、ただ何ものも動かさずにじっと無に至ろうとするかの違いでしょう。


 私としては、臘八接心のような修行は自分を追い込んで精進の心を鍛えるものだと思っていますが、できるなら追い込まないで易行道で精進の心を育てていきたい・・・というのは安易に流れる懈怠の心か。。。(^^;