インドと釈尊【原始仏教関連】のトピック

信仰から始まる
2011/12/03
投稿者
愚道
内容
釈尊の説かれた涅槃に入るための修行法である三十七道品の一つに五根法があります。これは、
1)信根
2)精進根
3)念根
4)定根
5)慧根
の五つからなりますが、その最初に行うべきものが1の「信根」で、これは仏法僧への帰依・信仰と五戒を保つことです。
また、在家に説かれた八法は
1)信
2)戒
3)施
4)詣
5)聞
6)持
7)観
8)法次・法向
で、これの最初もやはり仏法僧への信仰を確立する「信」です。
 仏教の実践はすべからく「信仰」から入っていくのです。決して仏教は単なる哲学や学問ではないわけです。

コメント 6件

金剛居士
金剛居士さん

2011/12/04 [22:43]

愚道さん、御無沙汰してます。
ちょっと暇ができたのでコメントつけますね。(^^;

私も愚道さんの意見に賛成ですが、「信仰」の中身が愚道さんと私ではちょっと違っているかもしれませんね。

一般人は、「な~んだ、結局は仏像を拝むことから入れというのか。」と思ってしまうのでしょうが、私としては“悟りの境地への信仰”が第一だと思うのです。

ゴータマ仏陀在世当時は、悟りの境地が目の前を歩いていたわけですから、仏陀の存在そのものへの信仰が中心だったでしょう。また、聖者と呼ばれるような勝れた弟子たちも信仰の対象になったかもしれません。

しかし、悟りの境地を体現した人がこの世からいなくなると、代わりに仏像や経巻や僧侶集団が信仰の対象になっていきます。それらを介して悟りの境地への信仰が醸成されればいいのですが、一般人ではなかなかそこまでいきません。

魂入れざる仏の像と生臭坊主が多い現代では、私としては、仏像も僧侶も信仰しないスタイルもありではないかと思っています。もちろん、悟りの境地への信仰は、自ら坐禅にいそしむとか、悟りを求めて経典を読み込むといった形で表現されていることが必要ですが。


仏教はお寺に通わないと分からないというのは昔の話だと思います。仏教書は山のように出版されていますし、他の参拝者に邪魔されずにゆっくり瞑想できる場所や時間はけっこうあるのではないかと思います。反対に、お寺でお坊さんに仏教の質問をしても宗派内の教えしか答えられなかったりしてね。(^^;


「悟りないし涅槃の境地というのがあって、そこに至る道(修行法)がある」と信じることから仏教は始まります。自分は悟れない(涅槃は決して得られない)と始めから諦めていては仏教以前ですね。(^^ゞ




~Φ 金剛居士 Ψ~
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愚道
愚道さん

2011/12/05 [10:53]

だいたいおっしゃりたい意味は分かります。
金剛居士さんの場合は法への信仰、法帰依が中心となるということでしょうね。
しかし現代においても、実際に涅槃に到達した釈尊を信じ、その弟子たちを仰ぎ見ることはできます。法帰依は前述の通りです。
ですから現代においても、仏像や仏画ではなく、本当の仏への信仰は成り立つのだと私は思うわけです。


金剛居士
金剛居士さん

2011/12/05 [18:48]

いやあ、そこは感性の問題だと思うんですよ。

人格の力(その人が実際に眼の前にいることによる力)は絶大だと思います。悩み事を解消してもらおうとその人の前に出たら、いつのまにか悩み事自体が雲散霧消してしまっていたというようなことは、現代でも有徳のお坊さんではありうることでしょうが、ゴータマ仏陀の人徳はそれとは比較にならないくらい絶大でしょう。

それを感じ取れるか否か。もちろん、お寺巡りをしてさまざまな仏像を拝んで、「どうやらすごく偉大な存在らしい」と感得する人もいるでしょうし、それが信仰の第一歩なのでしょうが、その先の中身が伴ってこないうらみがあります。

一方、現代人は頭だけは発達していますから、いろいろな仏教書を読んで、同じようなことが各時代に繰り返し繰り返し主張されていて、どうやらそれは非常に価値ある事柄らしいと思えたとき、中身が伴ってくるのではないかとも思います。

ま、これも感性の問題で、論語読みの論語知らずのように、仏典読みの仏教知らずということも大いにあるのでしょうが。それでも、仏教を迷信扱いするタイプの人は、思想的・知的な側面から仏教に入っていく道もありではないかと思っています。


  仏道は まずは礼拝 次に布施
       地獄の沙汰も 金次第ぞよ

なんて悪徳坊主にひっかかるのだけは避けてほしいなあと思って、男なのに老婆心からそんなコメントをつけてます。(笑)

ま、そんな坊主ばかりじゃないとは思っていますけどね。(^^ゞ


檀家仏教に取り込まれ、在家の八法の三番目(施)で引っかかって動きがとれなくなるのは回避してほしいなあと思っています。


愚道
愚道さん

2011/12/06 [18:15]

金剛居士さん

信仰というのは奥が深く、いろいろな階梯がありますからね。
道元禅師が信解行証と信を最初に持ってきたかと思えば、親鸞さんは教行信証と信を三番目に持ってきていますが、これは両者の言う信の深さや意味合いが違うからだと思っています。ですから、信仰から始まると一口に言っても、とっても微妙な問題をはらんでいるのだと思います。
しかし、宗教を実践しようと思ったならば、やはりなにかしらの(たとえ軽く浅くとも)信が最初に必要だと思うしだいです。
「信あって解なくんば無明を増長し、解あって信なくんば邪見を増長す。信解円通してまさに行のもととなる」
じつに含蓄のある言葉だと思います。


金剛居士
金剛居士さん

2011/12/06 [21:16]

龍樹の『大智度論』にも有名な言葉がありますね。

佛法大海 信爲能入。智爲能度。如是義者 即是信。若人心中 有信清淨。是人 能入佛法。若無信 是人 不能入佛法。(T1509_.25.0063a01-04)

まずは信、そして智がないと彼岸へは渡れません。この場合の智は、空を理解する智でしょうね。

いわゆる極楽往生とは、仏法の大海に入ることだと思うんです。そこで阿弥陀仏よりじきじきに智を得て菩提や涅槃に入るのではないかと。親鸞さんは比叡山ですでに空の理解を十分に得ていたから、信によって速やかに菩提や涅槃に肉薄できたのではないかと。

親鸞さんとて、信が確立するまでは仏法が本物になっていなかったのかもしれませんね。


愚道
愚道さん

2011/12/07 [15:23]

「仏法の大海は信をもって能入となし、智をもって能度となす」
これもすばらしい言葉ですよね。智を成就するには、やはりなまなかな信仰・修行ではいけないのでしょうね。完全不動の信で修行に邁進する。それが智への道なのだと私は考えております。