インドと釈尊【原始仏教関連】のトピック

釈尊の悟り……縁起の法
2011/07/01
投稿者
愚道
内容
 釈尊は菩提樹下で悟りを得られました。その内容とはなにか? 端的に示しているお経があります。それは「パーリ五部」の『小部経典』所収の『ウダーナ』(自説経)です。
「まことに熱意を込めて思惟する聖者に
かの万法の明らかとなれる時、
彼の疑惑はことごとく消え去った
縁起の法を知れるが故である」
つまり「縁起の法」を悟った故に、彼、つまり釈尊の疑惑はすべて晴れ、万法が明らかになったというわけです。
釈尊の得た真理は縁起の法に尽きると言うことです。そして、そこに至る道が、他の原始経典群の各所に登場する「三十七菩提分法」なのです。

コメント 13件

愚道
愚道さん

2011/07/11 [18:36]

中村元先生などは十二支縁起はだいぶ後でできたものであろうという説ですね。でも宮元啓一先生のように最初に十二支縁起ができたという説もあります。私は後者の立場で最初に十二支縁起ができたと思っています。それでいきなり十二支の観法ができない人のために四支や五支から教えることもあったのではないかと考えています。
 基本的に苦の生起の観法が十二支縁起で、その解決の観法が四諦の法門だろうと思います。

 「これあればかれあり・・・」ですが、これは縁起の法則なのですから、「縁あれば果報あり 縁生ずれば果報生ず 縁なければ果報なく 縁滅すれば果報滅す」というように、わたくしは考えております。


金剛居士
金剛居士さん

2011/07/22 [19:26]

愚道さん、いつも亀ですみません。(汗)

 まず、コメント(07/07 [18:22])の訳を修正しておきました。Athas sa の意味だったんですね。

 さて、中村元の著作で調べてみると、この部分はだいぶ重要で議論の多い箇所になりますね。

 愚道さんが引用した詩の直前には、「これあればかれあり・・・」と十二縁起が記されていますが、私としては、この詩にバラモンという言葉が入っていることから、韻文は成立年代がずっと古く、この箇所はやはり散文と韻文の新旧二層構造になっているのだろうと思います。

 では、ゴータマ・シッダッタが何を悟ったかですが、「諸法が明らかになる」が成道体験だったとするならば、悟りの内容は諸法無我でしょう。また、それと同時に諸行無常も悟ったと思われます。もちろん、熱心に静慮したのが十二縁起ということはあり得るわけで、それによって彼の疑惑がことごとく消失し、諸行無常・諸法無我が明らかになるということは理に適っています。

 一方で、この詩自体がゴータマ・シッダッタが成道した体験を報告したものと言えるのかどうかは疑問です。これは単に、静慮するバラモンが体験するであろうことを語った詩だったのかもしれないからです。それが都合よくゴータマ・シッダッタの成道体験として利用されたという可能性もあります。

 ま、ここまで疑ってしまうと元も子もないのでしょうが、ゴータマ・シッダッタが自らの成道体験を語らず、後代の人々が彼の説法から成道体験を推測したという可能性も否定しきれないわけです。


 この成道体験にあたる箇所には、三つの詩があります。(以下もあまりあてにならない拙訳)

  (1)
  ‘‘Yadā have pātubhavanti dhammā,
  Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa;
  Athassa kaṅkhā vapayanti sabbā,
  Yato pajānāti sahetudhamma’’nti. paṭhamaṃ;
  そのとき、実に、諸法が明らかになる、
  熱心に静慮するバラモンにとっては。
  また、かれの疑惑(または期待)がことごとく消失する。
  なんとなれば、有因の法を知るから。第一に。

  (2)
  ‘‘Yadā have pātubhavanti dhammā,
  Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa;
  Athassa kaṅkhā vapayanti sabbā,
  Yato khayaṃ paccayānaṃ avedī’’ti. dutiyaṃ;
  そのとき、実に、諸法が明らかになる、
  熱心に静慮するバラモンにとっては。
  また、かれの疑惑(または期待)がことごとく消失する。
  なんとなれば、縁の尽滅が見いだされたから。第二に。

  (3)
  ‘‘Yadā have pātubhavanti dhammā,
  Ātāpino jhāyato brāhmaṇassa;
  Vidhūpayaṃ tiṭṭhati mārasenaṃ,
  Sūriyova obhāsayamantalikkha’’nti. tatiyaṃ;
  そのとき、実に、諸法が明らかになる、
  熱心に静慮するバラモンにとっては。
  悪魔の軍勢を破壊(または離薫)して[彼は]立つ。
  太陽が虚空を輝かす如くである。第三に。

 たしかに(1)は、無明からすべての疑惑(または期待)が発するという有因の法(十二縁起の流転門)を知っている、という意味に解せます。また、(2)は縁の消滅ですから十二縁起の還滅門を意味していると解せます。(3)の「悪魔の軍勢」は、煩悩を意味していると見て間違いないでしょう。

 ですから、この経典をそのまま信じれば、十二縁起を完全な形で悟っていたのだと言うことは可能です。しかしながら、ゴータマ・シッダッタの成道体験当時、意識的になっていたのは渇愛までだったのではないかと私は想定しています。渇愛の対象が完全に消え去ったから彼は自分が涅槃(または解脱)に達したと感じたのだろうと思います。つまり(2)の状況ですね。

 それに、疑惑や期待をことごとく消滅させるには彼の体験を一つ一つ具体的に静慮していくしかなく、とても十二縁起のような概念的に整理された思考法では縁の完全な消滅は達成できないと思います。成道体験当時にゴータマ・シッダッタがやったのは非常に雑多な――たまたま心に生じてきたものを対象に行き当たりばったりに行なった――静慮で、後に説法したときも随機説法として部分的にしか語らず、後代の人々がそれらを全部集めて整理してみたら十二縁起になっていたということではないかと思います。

 私としては、ゴータマ・シッダッタが苦行の放棄をすることで不苦不楽の中道を得て静慮が自動的に深まり、縁(=疑惑や期待の諸対象)が消滅していったのではないかと思います。つまり、(2)がいちばん最初の体験だったのではないかと考えます。その勢いに乗って、縁が消え去ったのはなぜかを考えると有因の法(十二縁起の流転門)が見えてきて、十二縁起の還滅門によって煩悩を残らず消滅させることができたのでしょう。

(つづく)


金剛居士
金剛居士さん

2011/07/22 [19:27]

(つづき)

 この箇所は、次のように始まります。

「私はこのように聞いた。――あるとき世尊はウルヴェーラに住して、ネーランジャラー川の岸で菩提樹下に、はじめて現等覚した(paṭhamābhisambuddho)のである。それによって、実にまた、そのとき世尊は七日の間ずっと結跏趺坐を組んで、“解脱の安楽の享受”(vimuttisukhapaṭisaṃvedī)が有る。ときに、世尊はその七日が過ぎてからその三昧から出定して、その夜の最初の部分において、縁起の法(paṭiccasamuppādaṃ)を順の順序に従って(anulomaṃ)十分に考えた。」(拙訳)

 ここでいう「はじめて現等覚した(=悟った)」を解脱の安楽の享受直前の何かと捉えるか、十二縁起の静慮までを含んだ全体的な説明とみるかで見解は別れると思いますが、私としては直前の何かと見なし、それを諸行無常・諸法無我の体験だったのではないかと考えているわけです。

 
 この直後に続く「これあればかれあり……」の原文は、

  imasmiṃ sati idaṃ hoti,
  imassuppādā idaṃ uppajjati
  imasmiṃ asati idaṃ na hoti,
  imassa nirodhā idaṃ nirujjhati
  これがあるときに、かれが有る。
  これの生起から、かれが発生する。
  これがあらぬときには、かれが有ることなし。
  これの止滅から、かれが滅する。
                (拙訳)

 「これ」に相当するimasmiṃが男性・中性代名詞の処格,imassaが男性・中性代名詞の与格,属格。「かれ」に相当するidaṃが中性代名詞の主格・対格。(いずれも代名詞imaṃの格変化で、本来ならば両方とも「これ」と訳すべきなのかもしれませんが、混乱するので「かれ」も使っているのでしょう。)

 愚道さんの見解では、これ=縁(paccaya, pratyaya [男性名詞]),かれ=果報(phala [中性名詞])ですか。たしかに文法的にも成立しますね。

 この此縁性(idappaccayatā,idaṃpratyayatā)と呼ばれる思考形式は、十二縁起の静慮の中で形成されていったのかもしれません。しかしながら、もっと直接的な成道体験として、無我の体験があったのではないかと私は想像します。「これ」を我(attan, Atman [男性名詞])とし、「かれ」を苦(dukkha, duHkha [中性名詞])とすれば、

「我があるときに、苦が有る。我の生起から、苦が発生する。我があらぬときには、苦が有ることなし。我の止滅から、苦が滅する。」

となり、仏教の核心を衝いた悟りを表現したものとなります。これは私の思いつきにすぎず、文脈的には愚道さんの見解が正しいんでしょうけどね。


 十二縁起についてはきれいに形式化された表現になっていますので、無明と行を例にとってコメントします。

  avijjāpaccayā saṅkhārā
  無明の縁から、諸行が〔ある〕。

  avijjānirodhā saṅkhāranirodho
  無明の滅尽から、行の滅尽が〔ある〕。

 流転門も還滅門も、ともに前半は奪格(~から,from ...)です。私としては、縁を観念の意味にとっています。


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愚道
愚道さん

2011/08/05 [10:32]

私も亀レスですみません。コメントされたのを気づかずにいました。(^_^;)

いろいろと考察や理論づけはできると思うのですが、結局は縁起の瞑想を自らやって、悟りをわが物としないかぎり、釈尊の真意は分からないのだろうと思っています。まだ、入り口をうろちょろしている私にとっては、道ははてしなく遠いばかりです。

十二支縁起の瞑想をするも、いまだ表面意識の第六意識のみに終始しているようです。深層意識で十二支縁起を瞑想できるのはいつのことやら。やはり、第七マナ識の壁は厚く、第八アーラヤの中に真理を具現できるのか、否か。こうなると愚癡ですね。(^_^;)

日々実践。それしかないのでしょうね。


金剛居士
金剛居士さん

2011/08/07 [22:03]

 私も今回のトピックに関する考察で、ゴータマ・シッダッタの成道には彼の師匠であったアーラーラ・カーラーマ仙の無所有処定とウッダカラーマプッタ仙の非想非非想処定が大いに関わっているのではないかと思い至るようになりました。まだよく調べていないので各々の定について詳しい説明はできませんが、「ブッダの瞑想3」あたりを見れば大まかな内容が想像できると思います。

 つまり、ゴータマ・シッダッタの悟りはこのような深い三昧がベースになっていて、彼が不苦不楽の中道という静慮に最適な精神状態になれたからこそ、縁起の法が如実に分かるようになったのではないかと思うようになりました。

 ごく大まかに言えば「釈尊の悟りは縁起の法である」という点には私も賛成ですし、その内容を他者に伝えるため、あるいは解脱への道を示すためには十二縁起は非常に優れているとは思いますが、そのベースに定(三昧)がないと十二縁起は単なる哲学思想になってしまいますね。


>深層意識で十二支縁起を瞑想できるのはいつのことやら。

 阿頼耶識は単に認識結果を受け取って保存して再生するだけの識で、自ら思考するようなことはないと思います。末那識は執着としてさまざまな思量をするでしょうが、十二縁起を瞑想するところまでいくかどうか・・・。

 末那識が執着している様子を第六意識が縁起の法のもとに確認して、その執着を放下させるくらいしかできないのだろうと思いますよ。そのために必要なのが徹底した禅定行。深い三昧の状態に入らないと智慧は働きませんからね。


愚道
愚道さん

2011/08/08 [17:54]

密教の成仏論でいけばアーラヤ識上で、真理をそのまま顕現させて、それが浄アーラヤ識のアンモラ識になって、法界体性智が顕現するのです。そしてアーラヤ識は大円鏡智になり、マナ識は平等性智に、第六意識は妙観察智に、前五識は成所作智になるわけです。アーラヤ識に真理そのものを映せるかどうか、そこに密教の成仏論が関わっているのですが、それを実際に実現するには、根本仏教で説く四禅法、四念処観、慧根(四諦十二因縁の瞑想)が必要なのだというのが私の見解です。


金剛居士
金剛居士さん

2011/08/12 [07:56]

>アーラヤ識上で、真理をそのまま顕現させて

 ふつう密教では、このために真言を唱えたり護摩を焚いたりするんでしょうが、私にとってはどうもそれがインチキくさい。彼らは仏の力によってそれが成就されると考えていますが、本当に諸仏諸尊に彼らの思いが通じているのか、本当に阿頼耶識に働きかけるまで根源的に諸仏諸尊が関わってくれているのか。

 私は密教の働きを全否定するものではありませんが、それが成就する人はほんの一握りしかいないだろうし、成就しない密教の修行法は、いわばオマジナイに近いだろうと思っています。

 私としては、密教の象徴をすべて顕教の教理に翻訳し直すことができる人のみが密教の行を成就できるんだと思っています。その意味では密教の行を愚道さんのいう根本仏教の行法に翻訳し直して(?)そちらを行ずる――もちろんその原文たる密教のイメージを併用するのは構いませんし、達人は併用したほうが行が格段に進むでしょう――ことは重要かと思います。

 おそらく密教の行者は儀軌だけはしっかり修得していても、その翻訳のしかたが分かっていないのでしょうね。つまり意味も分からず行じていることが多いのではないかと。



 密教の象徴の顕教的意義については、いずれ密教コミュニティ(三密堂)で論じていこうと思っています。また、阿頼耶識と阿摩羅識の関係や転識得智については、唯識コミュニティ(瑜伽行唯識派の道)で論じていこうと思っています。



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愚道
愚道さん

2011/08/12 [18:37]

金剛居士さん

密教の観法の欠点というか、たりない部分として、私はビパシャナーはあってもシャマタがないことが第一に挙げられると思います。どんな結構な観法であっても、まずアーラヤ識をサラにするというか、一切の妄念雑念をきれいにしてしまって初めて、そこに観法によって智慧を現じて行くことができるのだと思うのです。

釈尊も非想非非想処などという究極のシャマタによって、アーラヤ識に映る一切の妄念雑念等をきれいにしてしまって、その上で、そこに縁起の法を観想していったから、完全に智慧を得て解脱ができたのだと思うのです。

その完全なシャマタに向かう道のりのなんと遠いことでしょうか。嗚呼


金剛居士
金剛居士さん

2011/08/15 [00:01]

愚道さん、こんにちは。

>アーラヤ識に映る一切の妄念雑念等をきれいにしてしまって、その上で、そこに縁起の法を観想していった

 私としては、非想非非想処定の極点(すなわち完全な成就)において阿頼耶識の煩悩の種子が完全に払拭されて解脱(涅槃)が起こり、縁起の法の観想の繰り返しによって智慧(菩提)を得るのだろうと考えています。

 密教についても、妄念雑念等を徹底してきれいにした後に行ずれば本来の密教の清浄なる働きが現われ出るのではないかと思います。心に欲望があると、行法中の仏のイメージも汚れます。「雑染せる画布に美しき絵は描けず」といったところでしょうか。


愚道
愚道さん

2011/08/15 [18:10]

だいたい金剛居士さんの考えと私の考えは似ていると思います。
いかに完全なシャマタを実現するかが問題ですよね。やはり四禅定(五根法の定根、五力法の定力)を修め、次に四無色定に入っていく、そこで四念処観(五根法の念根、五力法の念力)や四諦・十二因縁の瞑想(五根法の慧根、五力法の慧力)を行う。このシャマタとビパシュヤナーの両輪が必須で、それを支えるのが四不壊浄(仏法僧への帰依と持戒。五根法の信根、五力法の信力)と四正勤(五根法の精進根、五力法の精進力)だとわたくしは考えています。
 以上の行法を修めた人間が密教の修法を行うならば、その時はまさに次第・儀軌に示されるような、さまざまな奇瑞が生じるのだと思っています。