インドと釈尊【原始仏教関連】のトピック

原始仏教2
2011/07/01
投稿者
愚道
内容
 すべての経は、「このように私は聞きました」の言葉から始まります。このため、すべてが釈尊一代で説かれた経だと、昔は思われていました。もっとも「偽経」(「ぎきょう」と読みます)という区分があり、中国で撰述されたお経はこう呼ばれておりました。したがって、釈尊の説法ではない『般若心経』などの般若経典群、『法華経』『華厳経』『阿弥陀経』などのインドで撰述された大乗経典は、「偽経」と呼ばれていないわけです。釈尊が説いていないのに、釈尊が説いたという「ニセ」の形式を取ってはいても、「偽経(ぎきょう)」ではないという不思議な図式があるのです。仏教に興味を持っているのに、この辺をご存じない方はいまだにたくさんいます。
 さて、前述のように大乗経典は釈尊の説かれたものではありません。いわゆる原始経典群と呼ばれる漢訳の『阿含経』、パーリ語の「パーリ五部」によってのみ、釈尊とその弟子たちの教法を知ることができます。もちろん、それらの原始経典群のすべてが釈尊の真説ではありません。しかし、この原始経典群以外に、釈尊とその弟子たちの教法を伝える経典はありません。もちろんこの経典に付随する律蔵にも、釈尊の言行が遺っていると思われますが。
 日本でそのことが分かったのは明治からのことです。これは現在では、「仏教学」としては通念となっております。しかし、信仰の面、宗門の面では、いまだにその事実をうやむやにする傾向があります。
 私はいたずらに大乗経典を非難するものではありません。また、それらの大乗経典によって成り立つ宗門を否定しようとも思いません。しかし、事実は事実として公にも認め、原始経典群の伝える釈尊の教法を宗門の教義にも取り入れるべきだと考えているのです。

コメント 2件

金剛居士
金剛居士さん

2011/08/21 [08:25]

愚道さん、こんにちは。

 どうも私は人の意見に反対ばかりしていてイカンなあと思っているのですが、またまた話の腰を折る反対意見を。(笑)


 たとえば浄土真宗を例にとりますと、「自分たちは始めから修行が出来ない凡夫だから、ただただ南無阿弥陀仏を唱えるしか方法がないんだ。」という考え方をベースにして成り立っている宗派です。だから、愚道さんのいう“釈尊の教法”を取り入れるのは不可能ではないかと思います。浄土宗・時宗も同様でしょう。

 日蓮宗は、法華経があれば他のものは一切いらないと言って一刀両断に切り捨ててしまう宗派ですが、私はこの宗派には詳しくないのでここで議論は展開できません。他の修行法を採用すると、法華経の価値が棄損されてしまうと思っているのかもしれませんね。

 禅宗系は瞑想を主体としますから、愚道さんのいう“釈尊の教法”を取り入れることは十分に可能なのでしょう。しかし、彼らは「空」を修行の根底に置いていますからね、原始仏教の修行法そのものを「空」として否定してしまうんでしょう。本当は、その修行法で発見されるものが「空」であるんですけどね。つまり「空」が適用されるべき場所が違う。

 もし私が臨済宗の師家だったならば「四念処観の一つに『法に対して、無我であると念じる』とあるが、汝は無我をいかに観念すべきや?」なんていう特別な公案を出したりしてね。(^^ゞ

 基本的に鎌倉以降の仏教は専門店ですから、愚道さんのいう“釈尊の教法”を取り入れたらという提案は、ちょうど中華料理専門店にフランス料理のメニューも採用したら?というくらい無理難題かもしれませんよ。

 空海の包括的思想にもかかわらず真言宗も真言専門店ですから、原始仏教を受け容れるのは難しいかもしれませんね。

 天台宗は円・禅・戒・密を修行の基本としていますから、まあ可能かなとも思いますが、それでも円教(法華経)は、小乗と大乗を区別して声聞乗を劣等と見なしたがる本家とも言えますから、表面的な天台宗理解では原始仏教の本格的導入は困難でしょうね。


 大乗仏教はゴータマ・シッダッタが直接に説いた仏教ではないということが学問的には明確になっている今日、日本の各宗派もそれに対する自宗の考え方を明確にすべきでしょう。

 特に天台宗の五時教判は歴史的には間違いなのですから、護教的な弁明をすべきかと思います。私としては、多少の歴史的誤認があったにしてもそれで各宗派の伝えようとする境地はいささかも棄損されないとは思うんですがね。いずれの宗派でも、歴史を無視して強弁するほうがよほど宗教的な価値を棄損すると思います。その強弁の背景には、宗祖を過剰に崇拝する態度があるような気がします。




~Φ 金剛居士 Ψ~
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愚道
愚道さん

2011/08/21 [15:14]

金剛居士さん

私も、まぁ、むずかしいと思います。
しかし、「釈尊は大乗経典を説かれなかった」という事実を無視できる時代は、もう終わったと思うのです。ですから、各宗派もそこは認めて、なんらかの工夫をしなければ、「これまで各宗派が残ってきたのだから、今後も残っていく」ということは考えにくいと思うのです。その辺は金剛居士さんもご理解いただけるように思っています。
では、どうやって取り入れるか、それは各宗派が真剣になって取り組むべきことだと思うのです。たとえば念仏の思想にしても、阿含経ですでにそれは説かれていますからね。その念仏を浄土門の念仏に取り入れる工夫をするとか、阿弥陀如来を釈迦如来の一面としてとらえるとか、やりようはあると思うのです。まぁ、容易ではないでしょうが。
いずれにしても、釈尊が生涯をかけて説かれた三十七菩提分法を各宗派の僧侶が実践するようになってほしい、と私は思うわけです。