インドと釈尊【原始仏教関連】のトピック

原始仏教1
2011/05/13
投稿者
愚道
内容
 日本における原始仏教の研究が始まったのは明治以降のことです。これは西洋の学問が輸入され、西洋人の仏教研究法が採用されたためです。
 しかし、西洋では原始仏教などという用語はあまり用いません。せいぜいミセス・リス・デイヴィッズが「アーリー・ブディズム」という語を使った程度です。これは西洋人が漢文による大乗仏教の研究をほとんどしなかったためです。西洋人が「仏教」と呼んで研究しているのは主として、いわゆる原始仏教です。ですから、彼らはいちいち原始仏教などといわなくても、「ブディズム」というだけで原始仏教を指すことになるわけです。
 日本でも明治以降は原始仏教、南伝仏教の研究が急速に進みました。パーリ語で書かれたパーリ五部(長部経典・中部経典・相応部経典・増支部経典・小部経典)を一番最初に研究されたのは、東京大学文学部宗教科主任教授の姉崎正治先生でした。姉崎博士はドイツでパーリ語やサンスクリット語を学び、日本に帰国してからパーリ五部と漢訳の四阿含(長阿含経・中阿含経・雑阿含経・増一阿含経)を対照し、比較表をお作りになりました。
 続いて東京大学文学部梵文学科主任教授の高楠順次郎先生とその弟子たちが協力して『大正新脩大蔵経』を作られたとき、下部のフットノートに阿含とパーリ五部を対応させるということもなされました。
 さらに昭和四年に大谷大学の赤沼智善教授が『漢巴五部四阿含互照録』を出されました。これは姉崎先生よりも詳細に四阿含とパーリ五部を比較表示したものです。
(水野弘元博士の『根本仏教の学説』をまとめました)

コメント 5件

金剛居士
金剛居士さん

2011/08/13 [23:28]

愚道さん、だいぶ古いトピックに今頃コメントつけてますが。(^^;


 私はゴータマ・ブッダ中心史観とはまたちょっと違った視点で仏教を見ています。

 それは、仏教の〈仏〉とは仏陀性とか如来性のことで、必ずしもゴータマ・シッダッタ個人を意味するものではない、という立場です。つまり、ゴータマ・シッダッタの直説であろうとなかろうと、瞑想行によって感得された仏陀性とか如来性を説いたものであれば、それは〈仏〉の教えであると考えます。

 だから、いわゆる原始仏教宗団が始めたのがシッダッタ教(応身釈迦仏教)であり、久遠実成の釈迦牟尼仏を感得した法華経編纂宗団が始めたのが法身釈迦仏教、そのほかに阿弥陀仏教、弥勒仏教、大毘盧遮那仏教、坐禅仏教などがあることになります。いずれも等しく〈仏〉の教えであり、いずれも等しく仏陀性とか如来性から発していますが、その発現過程で出会うさまざまな外的要因によって各々の仏の姿やその教えが非常に変わっています。

 日本の各宗派はこの分岐していった特徴を土台にして築かれているので、他の宗派の教えを取り入れるのは困難なのではないかと思います。私に言わせれば、原始仏教はそういう分岐していった宗派の一つにすぎず、歴史的に分岐が早かったというだけで“釈尊の教説”だけを特別扱いするのもどうかしているなあという気がします。


 もう一つは、現代日本の各宗派の僧侶たちが、自らの宗派に立ちながら仏陀性とか如来性にまで達することができていないという問題点です。そこまで達していれば他宗の考え方を十分に理解し吸収できるのでしょうが、実際には、「自宗は他宗とはかくかくしかじかの点で違う」という浅いレベルに引っ掛かったまま、自他を区別していないと自らが立てないのですから、現状において他宗派の教えの取り入れは不可能に近いです。

 原始仏教は、応身釈迦の中に法身仏が含まれているわけですが、両者を完全に不可分のものと考えてしまっているために、釈迦仏以外は仏陀ではないと考えたりします。いわば、日本の各宗派と同じく、法身仏から応身仏が顕現するときの歴史的特殊性の中に自らの存在基盤を置いてしまっているわけです。だから、最近は新たな宗派としてテーラヴァーダ宗が日本仏教に加わった、という状況なのだと思います。

 でもまあ初歩的な修行法としても原始仏教(またはテーラヴァーダ等)は有益ですから、基礎作りとして少々かじってみるのもいいのではないかと思います。




~Φ 金剛居士 Ψ~
当SNS入会希望者は http://buddhism.sns.fc2.com/
ブログ發心門 http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/
お薦め仏教書 http://kongoukoji.fc2web.com/


愚道
愚道さん

2011/08/14 [22:32]

 私は大乗仏教の各宗派を全否定するものではありませんが、その基礎となるのはやはり釈尊の教法だろうと思うわけです。それを拡大発展して大乗仏教があるわけですが、しかし、根本を押さえて初めて枝葉末節は成り立つのだろうと思います。したがって、原始仏教で説く道品法と縁起の法が、やはり根本なのだろうと思うしだいです。


金剛居士
金剛居士さん

2011/08/16 [07:48]

 愚道さんはたぶん分かっているとは思うのですが、仏教理論に不案内な人のために念のため話のすれ違いの背景を説明しておきます。


 私が言っているのは法身仏をベースにした仏教、愚道さんが言っているのは応身仏をベースにした仏教です。

 仏には法身・報身・応身の三身があるとされていて、法・真如などの集まりとしての法身があり、この意味では“仏は真実そのもの”だということになります。また、修行の報いによってその真実を体現し享受しているのが報身です。これは仏の内心ですから、仏やある程度のレベルに達した修行者にしか分かりません。さらに、凡夫にもわかるように肉体をもってこの世に生まれてきて口で法を説くのが応身です。

 愚道さんは釈尊という応身仏をベースに考えていますから、大乗仏教はその発展形だと見なしますが、私は(究極的には一つである)法身仏をベースに考えますから、原始仏教は歴史的に最初にこの世に現われた仏法の一つのバリエーションという扱いになります。

 ところが「究極的には一つである」であるというのが実にクセモノで、法身釈迦牟尼如来がその究極なのか、それとも大日如来がその究極なのかで宗論を戦わせたりします。唯仏与仏――唯仏と仏のみが共有できる真実――の観点からはそんな議論はなされるべきでなく、維摩居士のように沈黙によって表現し、沈黙によって共有されるべきものです。

 このような法身仏の認識は、どの宗派の人であれかなり深く行じた人でないと与かれない境位であり、語ることによってかえって本質を逃してしまうようなレベルのものです。

 「因分可説、果分不可説」(仏になるための因すなわち衆生の修行段階は語れるが、その結果としての仏の悟りの世界そのものは語れない)とも言われますが、一方で、それを敢えて語ろうとしていろいろな宗派の教えが出てくるわけですし、ゴータマ・シッダッタでさえもそれを伝えようとして原始仏教の修行法を中心に語ったわけです。

 そういう意味では、語られたものは原始仏教の教えでさえもすべて枝葉末節。根本は、深い定によって体現された仏の菩提と涅槃だけでしょう。ここが愚道さんと意見の一致しないところですね。

 私は「原始仏教で説く道品法と縁起の法」がそのような“法身としての根本”に相応しているとは思いますが、いわゆる表面的な解釈に終わってしまうことを危惧します。もちろんこの危惧は、大乗仏教の各教義にも当てはまります。

 結局は、教えをどれだけ深く理解するか、そして体現するかにかかっているのでしょうね。


愚道
愚道さん

2011/08/16 [08:38]

 法身仏というものの仏教での起源を見ていくと、釈尊の得られた教理、特に戒定慧解脱解脱知見の五分法身が最初に出てきます。そして、釈尊は修行によってその法身を得られた報身仏であり、この世に出現されて衆生を救う応身仏です。つまり密教で言う三身即一の仏が釈尊ですから。私にとっては釈尊は単なる応身仏ではなく、法身・報身・応身すべての体現者です。

 本当に後世の仏教者が久遠実成の本仏や阿弥陀如来などを感得したのならば、その教理は釈尊と同じになるであろうというのが私の考えです。法報応すべての体現者なのですから。

 私が密教を是とするのは、たとえば阿弥陀如来は大円鏡智の象徴であり、大日如来は法界体性智の象徴であるというように、すべての仏が智慧や慈悲の象徴ととらえて顕教のような「創られた」歴史的背景を持っていないからです(法蔵菩薩が修行して阿弥陀如来になったというような)。

 以上も私と金剛居士さんが異なる点ですね。


金剛居士
金剛居士さん

2011/08/16 [22:32]

愚道さん、こんにちは。


>私にとっては釈尊は単なる応身仏ではなく、法身・報身・応身すべての体現者です。

 まあ、応身と言った時点ですでにその中に法身・報身を含意しているんでしょうが。私が“応身をベースにする”と言うのは、肉体レベルの存在を基礎にして考えるという意味です。

 肉体的に存在した仏は歴史的にはゴータマ仏陀ただ一人ですからね。この観点からは必然的にゴータマ仏陀の教えが根本になります。学問的(実証的?)にはさらにゴータマ・シッダッタを人間臭く捉えて、悟りが限定的であったかのように捉えているのではないでしょうか。私の一つの言説は、このような立場で展開します。

 私のもう一つの言説はこれとは矛盾する立場でしょうが、真如としての法を中心に展開します。その法は唯一でしょうが、それを知るときには認識主体の性格や環境などによって把握のしかたや表現のしかたは違うはずです。釈迦牟尼如来も阿弥陀如来も薬師如来も大日如来(というか金剛薩埵)も、報身として把握する真如の法が微妙に違っているでしょうし、衆生への説き方も各々違っているでしょう。

 にもかかわらず、かの報身仏たちが互いの悟りの内容を知ったなら、「我等は同一の法を悟って衆生に伝えている」と結論するでしょう。表現(報身の働き)とその伝えようとする対象(法身)とは別のレベルですし、その語られざるものをベースにしているのが大乗仏教だと言えます。もちろん、愚道さんのいう三身即一の釈尊もまた、学問的な人間ゴータマ・シッダッタとは違って、この大乗的な文脈に置き換えていくことができます。


>顕教のような「創られた」歴史的背景

 確かに大乗仏教は「創作」の面が大きいですね。しかし、喩えによってしかうまく伝えられないものもあります。慈悲の側面です。学問的に見るならば、阿弥陀仏の四十八願は創作でしょう。しかし、事実によっては決して伝えられない、または歴史的事実としては顕現しえない法もあります。法をベースにすれば、説かれたものが事実であろうと創作であろうと、法が伝わればそれらは等価値でしょう。



 私は時に懐疑主義者のような、また時に大乗仏教の理解者のような相矛盾する言説を展開しますが、それは仏教のいろいろな側面を取り上げたいからそうやっているのであって、愚道さんの立場を全面否定する気はありません。愚道さんがもし法身ベースの議論を展開したら、私はその補足のために応身ベースの議論を展開するのかもしれません。