中観思想・学びのすすめのトピック

中観思想と唯識思想
2009/09/20
投稿者
hidetoshi
内容
ご参加頂いております皆様方

大変にご無沙汰致しまして誠に申し訳ございませんでした。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://www.hide.vc/enginorikai.html

を著させて頂きまして以来、しばらくは西田哲学の学びを進めまして、それから現在は、ツォンカパ・ラマの中観思想について、再度学び直しを致しております。

当コミュニティの当初の目的の中にあります「龍樹からツォンカパまでの中観思想の整理について」、「中観思想と唯識思想について」を今一度考えて参りたいと存じております。

そこで、まずは論題の一つとしまして、唯識思想における「依他起性の仮有」・「真如の実有」と、ツォンカパ・ラマの中観思想における「言説有」との相似・相違点について、これから皆様からご意見を賜れましたらと存じております。

この数週間内にまずは私なりに考察致しまして、それから私なりの見解をここにて示させて頂きますので、そこからのご議論を宜しくお願い申し上げます。

既にこの論題につきましてご整理されておられます方がいらっしゃいましたら、私なりの見解を待つことなく、是非お示しして頂いてももちろん構いません。

コメント 24件

hidetoshi
hidetoshiさん

2009/10/11 [18:59]

金剛居士 様

この未熟者にご丁寧にいつもご教授頂きまして、幸甚に存じます。

当方はまだまだ中観思想という大海原で羅針盤がくるくる回り、行きつ戻りつ漂流しているというところでありますでしょうか・・

> 「色の現象が見られ、かつ空の現象が見られる」

このことはシンプルに解釈しますと「縁起」ということでありますでしょうか。

「色」は「有」ではないが、「無」でもない。では「色」は何かとなれば、「非有非無」となりますが、「非有非無」ではやはり理解は難しい。とした時に、「縁起」として「色」を説明する。その「縁起」は、となった時に、「時空的因果関係での縁起」と「Aと非Aの論理的縁起」の二つをもって説明する。そこで、「色」は、自体・自性として有るというわけでもないし、何も無いというわけではないということを理解して頂いて、最終的には「空」についても理解をして頂くように調えてゆく・・

ということで良いでしょうか。。


金剛居士
金剛居士さん

2009/10/12 [18:04]

 それで良いと思いますが、hidetoshiさんの場合は、「非有非無」などの専門用語をいきなり持ってくるから理解困難な説法になっているのかもしれませんよ。本質をえぐり出そうと私の発言も具体例を欠いた専門的論述になってしまって、しばしば読解困難な場合がありますので、他人のことは言えないのですがね。(^^;

簡単にまとめると、

色の現象が見られ、 =非無(皆無ではない)
空の現象が見られる =非有(恒常不変ではない)

そして、この有無の両極端を排除した中間(または非無・非有という二つの条件を満たす領域)には、縁起としての色がある。


「時空的因果関係での縁起」と「Aと非Aの論理的縁起」については、もう少しあとで論じましょう。話がややこしくなりそうなので。


金剛居士
金剛居士さん

2009/10/13 [08:01]

今回は、第四段落改訂版の仏教的意味。

まずは、一部加筆して「10/05 [20:29] 金剛居士のコメント」を引用します。
---- 引用開始 --------------
第四段落改訂版

(¬A)∩(¬B):『「我がある」もなく、「我がない」もない』……β
A∪B:『「我がある」または「我がない」』(の少なくともどちらか一方)がある……α
命題αと命題βとを共に否定する結論部は、
(¬α)∩(¬β)
 ⇒ {¬(A∪B)}∩(¬{(¬A)∩(¬B)})
 ⇒ {¬(A∪B)}∩〔{¬(¬A)}∪{¬(¬B)}〕
 ⇒ {¬(A∪B)}∩〔A∪B〕 =φ(空集合)
---- 引用終了 --------------

ここに、B=¬A を代入してみよう。

 ⇒{¬(A∪¬A)}∩〔A∪¬A〕

A∪¬A:「Aである、またはAでない」すなわち「全体」
¬(A∪¬A)は、全体の否定で、おそらくは「皆無」を意味する。

よって、この結論部は「全にして無」と言っているのである。

 それが論理的にあり得ない(φ:空集合である)ことは誰でもわかるが、これはまた禅思想を意味するのではあるまいか。


 ところで、四句分別で考えると、第三段落で A∩B という命題が省略されていたように、第四段落改訂版でも α∩β という命題が省略されている。これも、
α∩β
 ⇒ (A∪B)∩{(¬A)∩(¬B)}
 ⇒ (A∪B)∩{¬(A∪B)}
となって、第四段落改訂版の結論部と同じ結果になる。こちらは生滅と涅槃寂静の結合だから、そのまま「全にして無」の意味になろう。

 第四段落改訂版の結論部は、客観的にはあり得ないが、主観的にはそんな境地がありうる。第三段落の結論部 (¬A)∩A ;「AにしてAでない」も、金剛般若経みたいだが、これもまた生きる主体においては常にそうである。そうしないと成長も衰えも存在しないことになる。

 さて、(¬A)∩A=φ(空集合)は論理的に当然であるにしても、A∩B≠φということはあり得る。それは色即是空を例にとって説明した。では、「全にして無」は、すなわち「(我の)生滅にして涅槃寂静」は空集合であろうか。色即是空と同じに考えるならば、それは空集合ではない。その場合は、(我の)生滅を実体の二種類ではなくて現象と見なし、涅槃寂静もまた(我の)生滅の中に見られる一性質と見なすことになる。

 第四段落改訂版の結論部は、私としては無住処涅槃を意味すると見なしている。ここで、Aが我であるから、非我(¬A)を我のあらゆる可能性・潜在性の全体と見なせばよい。完全なる無の境地〔¬(A∪¬A)〕にありつつも、しかも「我である、または我でない(可能性・潜在性)」(A∪¬A)状態にある。人間においても無の境地にあってしかも全身全霊で活動しているということはありうる。

 ところで、この第四段落は最初に何を主張し、何を否定したのであったか。最初に、第三段落の結論すなわち無戯論・寂静の境地を立論し、次に、それが「我+非我」(すなわち全体)に依存している誤謬を指摘したのであった。その結論が、「生死に住せず、涅槃に住せず」という無住処涅槃なのである。これは無余依涅槃(仏陀が死んで完全な涅槃に入ること)の否定である。また、涅槃が生死と相互依存しているという意味で、涅槃の実体化の否定でもある。





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hidetoshi
hidetoshiさん

2009/10/16 [00:05]

金剛居士 様

第四段落改訂版の仏教的意味のお示し、誠にありがとうございました。四句分別につきまして改めまして理解が及びました。

『完全なる無の境地にありつつも、しかも「我である、または我でない(可能性・潜在性)」状態にある』・・空性の極地であるかと存じます。「生死に住せず、涅槃に住せず」・・まさに、「一切衆生救済のために、生死に住せず、涅槃に住せず慈悲の活動を展開する菩薩の境地」であるかと存じます。

本当に感謝申し上げる次第でございます。

「縁起」・・

「一秒前の私と今の(瞬間の)私は私なのか、違う私なのか」・・「不常不断・不一不異・非連続の連続・・刹那滅論証・・」・・この基本的な疑問について(あくまでも世俗諦としてではあるかと存じますが)確実に答えるために、仏教認識論理学の学びをしっかりとしなければならないと反省致しております。

「ダルマキールティ論師の瞬間的存在性論証(刹那滅論証)」の理解へ向けまして、一から誠に学び直し中でございます・・情けない限りでございます・・


金剛居士
金剛居士さん

2009/10/16 [22:52]

hidetoshiさん、毎度お褒めや感謝の言葉ありがとうございます。


>「一秒前の私と今の(瞬間の)私は私なのか、違う私なのか」

 ところが、中観思想では、私とはこの寄り集まった五蘊すなわち身心につけられた名前にすぎないのですから、一瞬前の私も、今の私も、一瞬後の私も、まったくの“無”なんですね。清々しいものです。

 にもかかわらずこの五蘊としての私は縁起していて、一瞬前と今と一瞬後とでは微妙に異なった同一性(類同性)をもって相続していきます。

 この縁起する私は、煩悩などに駆り立てられて受動的に生じさせられてしまうのか、それとも、本来は無であるにもかかわらずそこから衆生済度の誓願を立てて、この縁起する私をその都度生み出していくのか。菩薩はやはり空を生きてこそ本当の菩薩でしょう。空を生きるからこそ、受動的に生じさせられるものだけでなく、すべての縁起の可能性から選びとって自己を自在に顕わすことができるのではないかと思います。


hidetoshi
hidetoshiさん

2009/10/17 [16:33]

金剛居士 様

いつも私の理解の至らぬところをお助け頂きまして、誠にありがとうございます。

一連の混乱につきましては、やや世俗諦的に捉えねばならないことを無理に世俗諦を超えて捉えようとしてしまったため、それが逆に神秘主義的なところへと陥ってしまう弊害への危惧というあたりで現れてしまったものではないかと考えております。

具体的には、「非有非無」の理解をあくまでも世俗諦で考えねばならないということが、どこかで、その理解を世俗諦を超えるところへと及ぼさねばならないというとらわれになってしまっていたという感じであります・・

以前に賜っておりました前出の私の四句分別のミスにおけます「第三段落・第四段落」についてのご質問でございますが、特にこれといった出典はございません・・ただ、どこかの論著で参考となる内容があったのかもしれませんが、明確ではございません。ただの私の勘違いであるかと存じます。申し訳ないところでございます。

基本的には、

『「A」と主張する者は、非「A」という前提において言えていることである。「A」と主張する者は、非「A」ということを認めていることになってしまう。「A」はない。』、同様に、『「非A」と主張する者は、「A」という前提において言えていることである。「非A」と主張する者は、「A」ということを認めていることになってしまう。「非A」はない。』、そして、『「A」であって、しかも「非A」でもあるというのは、明らかに矛盾している。よって、「A」であって、しかも「非A」であるということもない。』、そして、金剛居士さんに改訂して頂いた「第四段落改訂版」ということになりますが、

『「A」と主張する者は、非「A」という前提において言えていることである。「A」と主張する者は、非「A」ということを認めていることになってしまう。「A」も非「A」もない。』と一気に『「A」も非「A」もない』としてしまったのは、やや問題があったと存じております・・

とにかく、「A」には、名称・言語・文章のみならず、思考・観念・論理・認識などいくらでも代入していけますし、また無限に展開していく論になってゆきます・・

また、この論は、あくまでも「A」が固定でき、決定していてこそ言えるものであり、そもそも「A」そのものが固定・決定できるものであるのかどうかが問題であります。一応は仮に「A」というものを固定・決定してという前提が必要となります。もちろん、仮は所詮、仮に過ぎません。

また、もしも「A」というものが、止めれて、固定・決定できたとしても、結局は論そのもの自体が成り立たなくなってしまいます・・

「一秒前の私と今の(瞬間の)私は私なのか、違う私なのか」の問いも、あくまで仮に私と一瞬が止めれて、固定・決定してこそにおいて言えるものであり、また、そもそも私と一瞬が止めれて、固定・決定できるものであるのかどうかも問題であり、仮にもしも、止めれて、固定・決定できたとしても、結局は問い自体が成り立たなくなってしまいます・・

しいて述べさせて頂くならば、上記の論の「A」には、もちろん、仏教思想全般にわたるいかなる論であっても代入でき、この論自体も例外ではなく、そうなります。論自体が論そのものを否定する論ということとなります。

上記の論は、改めて言語活動の虚妄性を示すという意義はあるかとは思いますが、しかし十分ではないとも考えております。

こういったあたりでの混乱の仕儀でございます・・


hidetoshi
hidetoshiさん

2009/10/17 [19:14]

金剛居士 様

いや・・

「非有非無」の「非有」=「無」として捉えてしまうと、「無と非無」となります。

また、「非無」=「有」として捉えてしまうと、「非有と有」となります。

このあたりのことでの基本的な勘違いかもしれません。

「非有非無」の「非無」=「非非有」として、「非有」と「非非有」、また、同様に「非無」と「非非無」として、「非有非無」をしっかりと理解していれば、四句分別的にも問題なく理解が及ぶところとなり、混乱も収束するところであるかと考えております。


金剛居士
金剛居士さん

2009/10/19 [19:46]

hidetoshiさん

 まず、形式論理学は実体論的論理学であるという点に注意が必要です。

>「A」と主張する者は、非「A」という前提において言えていることである。「A」と主張する者は、非「A」ということを認めていることになってしまう。「A」はない。

 この論理は、Aが他に依存せずにそれ自身として存立しうる実体であるという前提のもとで、実際にはAは他を必要とするからそれは誤謬であり、それは有自性(=実体)としてのAではない、すなわち有自性としてのAは存在しない、と結論づけていることになります。


>「非A」と主張する者は、「A」という前提において言えていることである。「非A」と主張する者は、「A」ということを認めていることになってしまう。「非A」はない。

 この場合も、他者に依存する誤謬からの帰結ですから、非Aを実体視しています。そして、有自性としての非Aは存在しない、と結論づけていることになります。

 したがって、ここでは「有自性としてのA」と「無自性としてのA」と「有自性としての非A」を考える必要があります。(「無自性としての非A」を考えると、もっとすっきり説明できます。)


>「A」であって、しかも「非A」でもあるというのは、明らかに矛盾している。よって、「A」であって、しかも「非A」であるということもない。

 ある一つの対象において、「有自性としてのA」と「有自性としての非A」とが同時に両立することは確かに矛盾です。しかし、「無自性としてのA」であって、しかも「無自性としての非A」であるものは、存在するかもしれません。それは、無自性の全体世界、あらゆるものが相依している全体世界です。また、個別のものを実体視すれば、そんな実体は存在しないでしょうが、仮有のAとしては存在するでしょう。


>『「A」と主張する者は、非「A」という前提において言えていることである。「A」と主張する者は、非「A」ということを認めていることになってしまう。「A」も非「A」もない。』と一気に『「A」も非「A」もない』としてしまったのは、やや問題があったと存じております・・

 この飛躍はじつは非常に面白くて、『「A」も非「A」もない。』は、無自性の全体世界への誘いになります。ここで実体視の温床である形式論理を脱け出そうとしているのです。そして、脱け出したその言明は、かつて私が記号論的に説明したように、論理的にそんなものは存在しません。つまり、言葉の脱け殻だけを残して龍樹は実体論的世界から脱け出すのである。


>この論は、あくまでも「A」が固定でき、決定していてこそ言えるものであり

は、まさしくAを実体視することによってこの論が成立することを意味しています。


>もしも「A」というものが、止めれて、固定・決定できたとしても、結局は論そのもの自体が成り立たなくなってしまいます・・

 つまり、Aを実体視すれば、その論の中ではAは存在しえないものになる。Aを実体視しなければ、そもそも論を組み立てることができない。かくして何も語らないのが唯一の正しい結論となるでしょう。これが龍樹の目指したものです。


>論自体が論そのものを否定する論ということとなります。上記の論は、改めて言語活動の虚妄性を示すという意義はあるかとは思いますが、しかし十分ではないとも考えております。

 中観派の論法の本質を見事に捉えていると思いますが、それでどこが十分でないのかお聞きしたいところです。




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hidetoshi
hidetoshiさん

2009/10/21 [22:10]

金剛居士 様

誠に私の混乱の原因をご指摘賜りまして、また拙い私論の補完を賜りまして、本当にありがとうございます。

どうも「アポーハ論」についての学びが中途半端なために出てきてしまった混乱であったのかもしれません。

しかし、どこか遠回りしているように思いながらも、このトピックの当初の目的の一つである『ツォンカパ・ラマの中観思想における「言説有」の理解』に少しずつながら近づいているような気もしております。

とにかく「アポーハ論」の展開についてじっくりと学びを進めようと存じます。そして、新たなトピックを立てる必要が生じれば、そのようにしたいと存じます。


金剛居士
金剛居士さん

2009/11/05 [21:32]

またまた間が空いてしまいましたが、これも“空”の実践です・・・。(^^;


 今回は、「形式論理学は実体論的論理学である」という点について補足説明しておこうと思います。

 一般に形式論理学は、同一律・矛盾律・排中律に基づいています。ヘーゲル論理学では「AはAである」という同一律が排除されていますが、ここでは例外扱いとしましょう。

 ところが仏教論理学では、この形式論理学の三原則のいずれもが崩されていきます。諸行無常ですから「AはAである」は必ずしも成立しません。また、自灯明を考えれば、「無我であり、それと同時に我がいる」という矛盾律に反する言い方もされるでしょう。形式論理学的には「有と無の中間」は存在しないはずですが、中道は「非有非無」と言われたりします。この問題をどう扱うかが今回のテーマです。

 ちなみに、「非有」=「無」や、「非無」=「有」が成立するのは、排中律が使える場合です。中道では、この置き換えの正当性も怪しくなってきます。


 正しい認識手段として、現量(直接知覚)・比量(論理的推論)があり、さらに至教量(アーガマ,聖なる伝承)が付け加わることもあります。また、間違った認識手段として非量(錯覚,妄想,思い込み等々)があります。仏教論理学は、このうちの比量に当たるでしょう。これが西洋哲学と異なるのは、至教量がそこに関わってくるからです。

 諸行無常・諸法無我という教えが比量よりも優位に立ちます。また、直接知覚も錯覚等と区別されなければなりませんから、やはり至教量が優先されるでしょう。仏教論理学はアーガマの僕(しもべ)に位置づけられます。これは、キリスト教における「哲学は神学の僕」に比せられると思います。

 さて、西洋の形式論理学は論理内部の一貫性を最重視します。ところが仏教論理学は、正しい認識(真如)に形式論理が道を譲ることになります。真如を語れない形式論理は、お払い箱になってしまいます。仏教論理学を議論する場合、このあたりのスタンスの違いをはっきりと認識しておくべきでしょう。

 西洋哲学では、論理的に矛盾する対象は存在しないと前提しているようです。すると、同一律を否定する対象は存在しないのでしょうが、ここで重要なのは、安易に存在を実体化してしまうか、それとも仮のものと認識するかです。プラトンもこの世の存在を儚い仮のものと見なして、恒常不変なものをイデアとして超越的世界に想定しました。

 ですから本来の論理学は、この世の存在ではなく超越的な存在に対して適用されるべきものであり、この世の存在に対して適用して真理を認識できるとするのは、仮のものを実体化する認識行為だと言えるでしょう。論理の中での一貫性や整合性を保とうとすれば、対象の姿とは微妙なズレが生じてきます。しかしながら実際には、そのズレを修正するための論理を構築すればいいわけで、ヘーゲル論理学はそのひとつの試みであったと言えます。

 そこで今度は、イデアを追求する論理学を問題にしてみます。ところが、イデア界など誰も見たことがないし、それは単なる観念の世界にすぎないのではないかとも言えます。より完全な観念を映し出しただけの空虚な場がイデア界なのかもしれません。これは仏教哲学に置き換えれば、おそらくは説一切有部の三世常住の法に当たるのでしょう。諸行無常の世界で、この法だけが永遠不滅とされています。

 中観派や唯識派は、インド哲学のアートマンの観念の他に、この説一切有部の法観念もぶち壊そうとしました。法さえも無我である(実体がない)と言い出します。

 いわば建物の材料(個々のブロック)に当たるあらゆる観念の実体のなさを明らかにし、また、それらの材料の組み立て方に当たる形式論理をもぶち壊してしまいました。この感覚世界は諸行無常で実体がない、それを超越した観念的認識の世界にも実体がない。仏教哲学にとっては、論理は空の僕でしかなかったと言えます。





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